Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】魂の行方を定める場所-『恐山』

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恐山。
その名は日本全国津々浦々に知れわたっていますが、実際に足を運んだことがあるひとはどれくらいいるでしょうか。

 

もちろん観光地ではありませんが、死者との邂逅が果たせる霊場として興味・関心を持っているひとも多いでしょう。
わたしもそんなひとりで、過去に現地を訪れたことがあります。

 

本州最北端にあって、東京から行ったとしても、片道6時間以上かかる足の便の悪さ。
しかも、開山するのは毎年6ヶ月間(5月1日~10月31日)だけなので、そうしたこともわたしたちが気軽に行くことを妨げています。


「怖いもの見たさ」から「死んだひとにもう一度逢いたいという切実な思い」まで、わたしたちがこの山に惹きつけられる理由はひとそれぞれに異なるでしょう。
しかし、わたしたちの耳に届く情報は、胡散臭い怪談かあまりに断片的なものばかりで、一向にその実像が見えてきません。


恐山とは、一体何であって、同時に何ではないのか。


かつて旅で訪れた懐かしさがほとんどでこの本を手に取りました。
しかし、読み進むにつれ、恐山が(心霊スポットなどではもちろんなく)現代人にこそ必要な「死の意味」を問うてくる場所であることに改めて気付かされました。

 

目次

第一章 恐山夜話
第二章 永平寺から恐山へ
第三章 死者への想いを預かる場所
第四章 弔いの意味
無常を生きる人々 あとがきに代えて

第一章では、みなさんが知りたい恐山の一般確認事項から著者の死に対する基本的な考え方が紹介されています。
第二章では、そんな著者がなぜ恐山の住職になったかの経緯。
第三章、第四章は、それぞれ「死の哲学」「弔いの哲学」が開陳されていて、実は、ある意味ここがとても面白かったりもします。
「哲学」と書きましたが、非常にとっつきやすく、普段こうしたことに考えを巡らせたことがないひとには、新鮮だと思います。

 

しかし、まるまる説明してしまうと、本書を読む楽しみがなくなってしまうので、今回は第一章に絞って、ご紹介したいと思います。

 

それでもかなりのボリュームになると思うのですが‥‥‥。

 

恐山の気になるところ

まずは下世話なところからいきましょう。
恐山といえば、やはり誰もが考えることは「幽霊」。
「日本三大霊場」「日本三大霊地」「日本三大霊山」のすべてにランクインしているとあっては、それもしかたのないことでしょう。

 

しかし、恐山の住職である著者は、

ちなみに私自身も、七年間恐山にいますが、残念なことに、ただの一度も幽霊や妖怪みたいなものを見たことがない。

とバッサリ。

 

恐山は、硫化水素が漂っているので、パソコンや自動販売機の金属が腐食してすぐ故障するそうです。
そうした中でも一番弱いのがデジカメ。
一週間も滞在しているとレンズがかってに出たり引っ込んだりして、それを見たひとが怪奇現象だと騒ぐとか。

 

夜、襖がガタガタするのでいよいよ幽霊かと思いきや、建物の内と外とで気圧が違うために、襖が振動するとのこと。
また、夜中の境内に歩く人影を見たと宿坊に泊まったひとが著者に訴えたそうですが、正体は幽霊を探し求めて徘徊していた著者自身だったというオチも。

 

まずは、かるーく、恐山を覆っている神秘のベールを剥いでしまいます。

 

ところが、恐山には、シンボルともいえるものがもうひとつ存在します。


それが、イタコ。


彼女たちは、その昔、目の不自由だったひとが生活のために始めた商売ではなかったかと著者は推理します。
しかし、恐山とはまったく関係がなく、契約にも縛られない完全な個人業者だそうです。
昭和三十年ごろにマスコミが「恐山のイタコ」と取り上げたせいで、そのイメージがすっかり定着したとか。

 

死者とは何者か

彼女たちが「口寄せ」と称する降霊術を行うのは広く知られたところですが、ここで著者は次のようなことを述べています。

「はたして死後の世界や霊魂があるのか、ないのか」と問われたときに、「答えない」というのが、ブッダの時代からの公式見解です。それを仏教では「無記」と呼びます。

わたしたちの関心は、どうしても幽霊は本当にいるのかという点に流れがちです。
死後の世界同様、生きているわたしたちには確かめようがないから、よけいに白黒つけたくなります。

 

しかし、そうしたものの有る無しよりも、大事なことがあります。

心霊が実在するとしたら、それは人間の問題の何を解決するのか、より良い生活を導くのか、他人との関係が豊かに深くなるのか。

もし、幽霊や死後の世界があるのだとしても、それはわたしたちを怖がらせるためだけのものではないでしょう。
生きているわたしたちの日常にどのような影響を及ぼすために、死者たちとその世界は存在しているのか。
この考え方に向き合うことが、恐山という世界を理解することの第一歩です。

 

著者は次のようなエピソードを紹介しています。

 

ある老夫婦が立派な五月人形を携えて恐山にやってきます。
それとは別に、老夫婦は小さな箱も持っていたのですが、その中には臨終直後の赤ん坊を写した写真が入っていたそうです。
赤ん坊は、ふたりの孫でした。
それを見て、著者は絶句しますが、同時に、わたしたちに問いかけます。
「せっかくこの世に生をうけたのに……。これからいろいろと楽しいこともあっただろうに、何もできないまま……」と思いませんか、と。

 

しかし、この考え方は間違っていると言います。

子供というのは、たとえ生まれた直後に死んだとしても、大きな仕事をひとつだけして死んでいくのです。その仕事というのは、一組の男女をお父さんとお母さんにすること。あるいは二組の男女を、おじいさんとおばあさんにすることです。

これを読んで、わたしは軽い衝撃を覚えました。

 

<死にました、燃やしました、
 お墓に入れました、この世から消えました>

 

日常生活から死とそのリアリティを喪失しつつあるわたしたちは、ひとの死を化学変化の一種、あるいは、「死んだら、ハイ、それまでよ」と即物的に捉えている節はないでしょうか。

 

ひとが死んだとき、わたしたちとそのひととの関係は決して途絶えません。
それは、この世に遺されたわたしたちが生きている限り持続するものであり、場合によっては、その生き方を拘束してくるくらいに強いものであることは著者の指摘するとおりです。

 

では、そこまでわたしたちに強く働きかけてくる死者の力とは、一体何によるものなのでしょうか。

 

魂とは何か

死者の意味について考えるための、著者と老師との対話があります。
短くするために本文を少しカットしてますが、言葉と意味は同じです。

「おまえは人が死んだらどこへ行くか知っているか」
「それはぜひ聞きたい話なんで教えてください」
「じゃあ教えてやろう。よく聞いてろ」
「はい」
「ひとが死ぬとな、」
「はい」
「その人が愛したもののところへ行く」

 さらに老師は続けます。

「人が人を愛したんだったら、その愛した者のところへ行く。仕事を愛したんだったら、その仕事のなかに入っていくんだ。だから、人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ」

 そして最後に言います。

「愛することを知らない人間は気の毒だな。死んでも生き場所がない」

死んだひとが愛した者のところへ行くって、どのようにしてでしょう?
もちろん、死体が歩いて会いにいくわけではありませんね。

 

その正体が「魂」なのです。
ただし、心霊とか火の玉とかいったスーパーナチュラルなものを指しているわけではありません。

 

魂とは、「人が生きる意味と価値のこと」だと著者は定義します。
それは、人との縁で育てるもの、他者との関係の中で育むものでしかない。

 

「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無視」であるとは、よく言われることです。
誰にも必要とされていない、誰の役にも立っていない、ひととのつながりを断たれた人生。
それはとても虚しく、寂しいものです。
何のために生きているのかという問題にもつながっていきます。

人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。それは自分ひとりの力では見つけることができないものなのです。

他者とのつながりを得て、お互いに必要とし必要とされるとき、場合によってはそこにいてくれるだけで良いとされたとき、ひとは初めてそこに魂を獲得できます。

 

ですから、「わたし」がひとに受け止めてもらえないばかりが問題ではありません。
「わたし」が自分のなかに閉じこもり、誰のことも受け止めてあげないとき、「わたし」はその誰かの魂を毀損しているとも考えられるのです。

 

恐山の持つ意味

「わたし」の存在を受け止めてくれていたひとが死ぬ。
言い換えるなら「わたし」に「生きる意味と価値」を与えてくれていたひとが、ある日突然いなくなる。
これはとても怖いことです。

 

ひとの死が決して他人事ではなく、わたしの魂の死になりうる意味がここにあります。
また、ひとりの死は決してそれだけでとどまる問題ではありません。
そのひとに受け止めてもらっていた大勢のひとから「生きる意味と価値」を奪い去っていきます。
これは決して死んだひとの責任ではありませんが、結果としてこうなってしまうのです。

 

「生きる意味と価値」を奪われる。
遺されるほうにとって、これは途轍もないダメージです。

 

しかし、すぐに、完全に、立ち直るのは難しいとしても、その衝撃をやわらげるための方法がないわけではありません。
それは、死者が完全に消え去ったのではなく、あの世で引き続きわたしたちを支えてくれていると確認すること。

 

ここで恐山の存在がおおきく意味を持ってくるのです。

 

死は、ひととひととの関係を容赦なく断ち切ります。
現代人が好む、合理性だとか合意だとか優しくといったナイーブさを包み込むようなものは一切存在しません。
理不尽に、暴力的に、突発的に、死は、ひとりの人間と遺される大勢の人々との関係を解消していきます。

 

そのために心に大きなダメージを負った人々が、死者が今も自分たちと共にあることを確認する場所。
亡くなったひとが自分にとっていかに大きかったかを認めることで反照的にそのひとの生に大きな意味があったと再確認する場所。

 

ひとりで抱えるには重すぎる想いを死者に預け、自分の「生きる意味と価値」の再生を図る、言うなれば、魂の行方を定める場所。

 

それが恐山なのです。

 

著者は、そうした思いを吐き出す場所としての恐山を、パワースポットではなく、パワーレススポットとして定義しています。
何もない、真っ白な場所だから、ひとはそれぞれの思いをそこに投影させ、自分の気持に整理をつけていくことができるのでしょう。

 

現代社会から喪われつつある「死の意味」や「死と生の関係」、あるいはその始末のかたちとしての「弔い」。
そうしたものを後半の章ではさらに考察していきます。

 

恐山を立ち去る人々は「また会いに来るからね」という言葉を残すそうです。
彼らにとって、死者は決して死んではいないのです。

 

読みやすいうえに、わたしたちが普段目を逸しがちな死について考察が深められる良書。

 

オススメです♪

 

本当の恐山・永平寺は、一生のうちに一度は行っておく価値があると、経験者は語ります。

 

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

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