読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】「キレるひと」「モンスター」の精神構造-『承認をめぐる病』

f:id:dawnrunner:20140808192407j:plain

前にサービス業で働いていたときの先輩、一緒に居酒屋へ行くと、普段の接客で見せる愛想良さが豹変。

「料理、遅いんだけど。さっさと持ってこいよ」
「皿、下げて、早く持って行けよ」

わたしはあまりの恥ずかしさと店員さんに対する申し訳なさで俯いていました。
もちろん、こんな人間になってはいかんと、先輩を反面教師にすることも忘れずに。

こうした振る舞いは、もう一歩進めば、クレーマーになりかねません。
新聞でその手の記事を読むたびに、当時を思い出します。

 

キレる人々

わたしの先輩は、仕事でのストレスを飲食店で発散させると口走っていた確信的トンデモ野郎でした。
しかし、病院で看護師を殴ったり、駅員に飛び蹴りをしたりするひとのほとんどが、普段は温厚で、およそ暴力とは縁がなさそうなひとばかり。

いわゆる「キレた」すえのご乱行なわけです。

斎藤環『承認をめぐる病』に、こうした人々に関する考察があります。

著者によると、「キレる人」は、決して「感情が抑制できずに爆発する」が理由ではないそうです。

キレる人は、どこかで必ず、自分にキレてしまうことを許しています。キレることを正当化する気持ちが少しでもある限りは、それを止めることはできません

これを「甘え」や「人格障害」だとして精神科に通わせたり、警察に逮捕させれば、問題はスッキリ解決したかのようにも思えます。

しかし、わたしたちの社会に、自分の正当性を主張する際、「極端な憤怒の形式を借り」るように仕向ける、そんな構造的欠陥がありはしないのでしょうか。

キレる人種の一例として、著者は「クレーマーモンスターペアレント、暴走老人」を挙げています。
このなか、特に「暴走老人」について興味深いデータがあります。

2008年度版『犯罪白書』からです。

65歳以上の刑法犯検挙人数

  • 1998年 13,739人
  • 2007年 48,605人

刑法に抵触して逮捕された65歳以上のひとの数をあらわしています。

いかがですか?
十年間で、実に3.5倍です。
その間に増加したであろう高齢者の数を考慮しても尋常な数字ではありません。
しかも、軽犯罪だけでなく殺人、強盗、傷害、暴行、窃盗、詐欺などのほとんどで増加傾向にあるそうです。

高齢の犯罪者が増加した原因として、白書は「社会的孤立」と「経済的不安」を挙げています。
つまり、ひととのつながりをなくし、お金にも苦しく生活の安定を脅かされた状態です。

 

「世間」の効用

従来、日本社会には「世間」なるものが存在しました。
「世間」は、ときに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった調子で、ひとの悪い部分を助長してきたところもあります。
しかし、それ以上に、日本人は「世間」から後ろ指さされることを怖れ、自分自身の行動に節度を持つよう心掛けてきました。
つまり、「世間」が集団意識と一応の規範を日本人に与えてきたのです。

ところが、地域社会の崩壊などで「世間」が消えつつある現在、友人・知人・家族など、ひととのつながりを失った人々は、裸一貫で社会と向き合わざるを得なくなりました。

精神的にひとりぼっちになり、かつ自分を戒める縛りがなくなった状態は、ひとの「未熟さ」を簡単に露呈させます。
これが自分に「キレる」ことを許す理由になります。

このような「世間」を筆頭に「教室」「職場」「趣味仲間」ついでに「コミケのサークル」といったものを、社会学では「社会関係資本ソーシャル・キャピタル)」と呼びます。

このように社会関係資本は、個人にさまざまな力を与えると同時に、大きな逸脱を押さえ込む力を持っている。社会関係資本の豊かな地域ほど、犯罪率が低下することは、すでに複数の調査研究が示すところである。

ちなみに、若者は高齢者ほどの増加傾向を示していません。
彼らには、まだあてにできる「家族」がいるからです。
とはいえ、若者であっても家族や友達を失ったときにどうなるかは、「秋葉原事件」の加藤智大被告などが如実に体現しているのではないでしょうか。

 

モンスターの論理

孤立を深めることでひとがキレやすくなる一方で、モンスターペアレントクレーマーの精神構造はこれともまた大きく異なります。

(喜入は、)こうした現象を「保護者の消費者意識の暴走」と考える。つまり多くの親は「同じ値段を払えば同じ商品が手に入る」という消費者の意識で、教育も捉えようとするのだ。それゆえ親たちは、自分の子供が他の生徒より損な待遇を受けることが我慢できない。

これです。
この「消費者意識の暴走」を身近なところでは飲食店やコンビニ、新聞などで見かけるところでは医療機関や交通機関に持ち込んできたのが「モンスター」です。

「同じ金額を払っているのに」

  • うちの子供だけ勉強できないのはおかしい
  • わたしだけ病気が治らないのはおかしい
  • 電車が遅延事故を起こすのはおかしい
  • 欲しい商品が品切れなのはおかしい
  • 言ったとおりに料理を作らないのはおかしい‥‥‥

こんなことばかり考えて生活していたら、わたしなら精神病になるでしょう。
人生、ケ・セラ・セラ。

ただし、これをマスコミが助長している点も見逃せません。
彼らがもっともらしく「あるべき教育」や「理想の医療」を唱えて、現実を片手落ちに批判すれば、一部の消費者は被害者意識を刺激され、結果、「わたしは損をさせられている」という思いだけが増幅させられてしまうのです。

 

「完璧なシステム」と「不完全なエージェント」

ところが、ここに不思議なことがあります。
「モンスター」の怒りは、例えば、コンビニなら本社、教育なら学校といった組織、つまりはシステムに向かうことはありません。
あくまでも、現場の店員や先生といった個人に怒りの矛先は向けられます。

わたしたちの暮らしはあらゆるシステムに支えられ成り立っています。
教育システム、医療システム、物流システム、情報システム、金融システム‥‥‥。

本来、わたしたちは、システムを使って生きてきました。
しかし、現代社会では、そのシステムが非常に発達してしまい、むしろわたしたちはシステムによって生かされているような状況に置かれています。
今や自分の生存根拠にまでなってしまったシステム。
そんな重要なものに間違いがあってはいけない、あるはずがないという「無謬性」の前提を人々はシステムに持つようになりました。

システムだって所詮は人間が作り出したもの。
いくらでも欠陥を抱えています。
しかし、上記のような発想に立つと、システムが間違ったとき、それはシステムのせいではなく、システムの働きを代行するエージェント、つまり「人間」に原因があるという考え方に落ち着いてしまうのです。

ひとたび自分に不都合があると、「モンスター」たちが徹底的に個人攻撃し始める理由がこれです。

「完璧なシステム」と「不完全なエージェント」

わたしたちは、あらゆる不安定要素を排除し、システムの完成度を上げることで、社会生活を便利にしてきました。
ところが、皮肉なことに、その不安定要素としてついに人間自身が槍玉に挙げられてしまったのです。

大事なことは、システムの完璧さを高めることではなく、そのシステムに携わるひとが間違いを犯してしまったとき、いかに彼らを吊るし上げずに救済するかという段階へ移行してきています。

会社や社会というシステムを前にして見当違いをおこすと、誰もが「モンスター」へと豹変しうる可能性を内在させているのです。

本書『承認をめぐる病』は、これ以外にも興味あるテーマをいろいろ扱っていて、ラカンの解釈など若干難しいところもあるのですが‥‥‥、


オススメです♪


うーん、ふみふみこ先生の表紙が可愛い。
この色使いがまた何とも!

 

承認をめぐる病

承認をめぐる病