Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】オタクは人間ではなくて動物だったの?-『動物化するポストモダン』

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先週の神田祭はすごかったですね。

わたしは神田明神には行かず、秋葉原だけだったんですけども、街のなかにまさしく「古今東西硬軟聖俗」がひしめき合っていました。大手町にあった神田明神が今の場所に移って400年目という節目の年に当っていたこともあり、今年の神田祭に生で立ち会えたことは非常に貴重な体験だったと思います。

だって、

 

パソコン、PS、ニンテンドー

お神輿、法被、笛太鼓、

ラブライブ、メイド、AKB48

牛丼、シシケバブナポリタン、

日本人の老若男女、世界中からの外国人、カポー、オタク……

 

こんなものが一堂に会するなんて、世界中を見渡したってそうそうあることではありません。わたしは『ブレードランナー』の世界のまっただなかに降り立ってしまったのかと思いましたよ。

でも、そのとき、この秋葉原という世界にも稀な特異点が生まれたのには、最後に挙げたオタクと呼ばれるひとたちの存在が与って力があったんだよな、とふと冷静になりました。まあ、わたしも少なからずそこに含まれるんですけどね。

そこでオタクについてちょっと調べようと思い、本を読みました。

その昔には岡田斗司夫さんが『オタク学入門』というまんまな本を書きましたが、時間とともにオタクの解釈は多様になり、現在ではなかなかひとつに定義しづらいようです。オタクという人種が劣化しているという意見もあるくらいで、彼もその後『オタクはすでに死んでいる 』なんて本を出しています。

これはオタクそのものよりも、わたしたちオタクを生んだ時代背景に目を向けてもいいんじゃないかと考え直しました。

そこでわたしが選んだのは、オタク論に関して一定の評価があるとされている東浩紀さんの『動物化するポストモダン』です。サブタイトルに「オタクから見た日本社会」とあり「オタク学」というのとはやや毛色が違いそうです。本書もすでに15年近くが経過しており、この世界では古典的存在ですが、現在までに30刷近くまで部数を伸ばしているのでその内容にはかなりの説得力があると思われます。

かつての時代には、政治的イデオロギーや宗教みたいなものがひとのこころを下支えしてくれていました。つまり、そうしたものを信じていれば、自分の暮らしは徐々に良くなっていく、自分の人生に生きる意味を見いだせる、と考えられていたのです。

そうした政治的イデオロギーや宗教のことを現代思想では「大きな物語」といいます。わたしたちは大きな物語のなかの登場人物であり、そこで自分の人生(これを小さな物語といいます)を生きているわけです。

ところが、どんどん現代に近づくに連れ、そんなものを信じていたって、おいらの暮らしはちっとも良くならねえじゃねえか、とみんな考えだしました。

ひとが利口になったといえば、利口になった。
こすっからくなったといえば、こすっからくなった。

大きな物語はひとびとから疑いの眼差しで見られるようになり、次第にそのちからを失っていきました。

そうした大きな物語がひとの心を引きつけるちからを持っていた時代を近代、つまりモダンと呼び、ちからを失っていった時代をポストモダンと呼びます。

一説には、第一次世界大戦で世界の国々が老若男女を巻き込んだ総力戦を経験した結果、いくら政治的指導者や神さまを信じていても悲惨なことになるんだと思い始めたことが大きな物語の失墜した理由だと考えられています。

このような世界の大きな流れとオタクという人種のあいだに何も関係がないはずがないじゃないか、いや、むしろポストモダンになって大きな物語がなくなってしまったからこそオタクという人種があらわれてきたのだというのが東さんの考え方の根幹です。

大きな物語をなくしたあと世界はどうなったかというと、ひとびと(ことにオタク)はそこに「データベース」を据えたというのです。

映画でも本でも構いませんが、物語というのはひとのこころに感動や考えるきっかけを与えてくれます。しかし、データベースを直に読み、感動したり、哲学的なヒントを得るひとは少ないでしょう。まったくいないとは言いませんが。

それができてしまうのがオタクだというのです。

 米澤穂信氷菓』に登場する福部里志は自分のことを「データベース」と称しますね。しかも口癖は「データベースは結論を出せない」です。彼は自分の特性をよく理解しています。データベースというのはデータを格納しているだけで、それらを有機的につなげることで新しい知見を得たり、ひとに感動を与えたりすることはできません。

氷菓』では、そうしたデータを使って物語を進めていくのは主人公の折木奉太郎です。

世界から大きな物語が消え、ひとがデータベース社会を生きるようになった。そして、オタクというのはそうしたデータベース社会が産んだ鬼子だと東さんは考えているのです。

ひとが宇宙で暮らすようになって突然変異のようにあらわれてきたのが『機動戦士ガンダム』のアムロであり、シャアであり、ララァでした。あるいは、東さんの言うような世界にわたしたちが生きているのなら、わたしたちがデータベースに適応した「ニュータイプ」になっていてもおかしくはありません。

ただ、これを素直には喜べないんですね。というのも、このデータベースに支配された世界を生きるわたしたちは「人間」であるよりも「動物」に近い生き物に変質してしまうというのです。このあたりの議論に興味がある方はぜひ本書をお読みになっていただくといいかと思います。

ところどころ、オタクについて深読みが過ぎているようなところがなきにしもあらずですが、今から15年前にこれだけの考え方を提示できたというのはさすがです。そろそろ新たなデフォルトとなるべきオタク論があらわれてもいいころです。

わたしたちは物語を捨て去ってしまったのでしょうか。そしてデータだけを面白おかしく消費するような、もて遊ぶような生き物へ変わってしまったのでしょうか。

個人的には今後オタクの研究をしてみたいなと思っている次第です。

 

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 
オタク学入門 (新潮OH!文庫)

オタク学入門 (新潮OH!文庫)

 
オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

 
氷菓 (角川文庫)

氷菓 (角川文庫)