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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】神や仏がいなくても、そこには人間がいるのです-『神も仏もありませぬ』

神も仏もありませぬ (ちくま文庫)

 

佐野洋子さんと言われてピンと来ないひとでも、絵本『100万回生きたねこ』の作者といえばわかるひとは多いと思います。 

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

 

 

佐野さんの肩書は絵本作家ですが、その文才はエッセイでも遺憾なく発揮されます。晩年、ご自身が癌になったとき、そのことをエッセイに綴りました。死の不安に苛まれながらも、しかし、その文章は明るく、不思議に読者を笑いにいざないます。精神的にタフな書き手でなければできない芸当でしょう。

佐野さんは日常の出来事をクールに受け止め、そのことに容赦ない皮肉を浴びせます。皮肉の矛先は自分自身にすら向けられます。しかし、それは読んでいてけっして気分悪くなるものではなく、むしろ胸がすっとするたぐいのものです。ときにクールに徹しきれず慌てふためくこともありますが、それも味わいでしょう。

今日はたくさんあるエッセイ集のなかから『神も仏もありませぬ』をご紹介します。

 

佐野さんのお母さんは痴呆症を患いました。
わたしたちが痴呆症患者を見るとき、記憶がどんどん剥がれ落ちていくそのようすは無惨としか言いようのないものですが、佐野さんによると、

 八十八歳の痴呆の人が聞く。「あの失礼ですけどお幾つでいらっしゃいますか」。痴呆でも「失礼ですけど」と云うんだと感心しながら「はい、六十三ですよ」と答える。答えても無駄なんだよなあと思ったとたん「あの失礼ですけどお幾つでいらっしゃいますか」「六十三です」「あーあー六十三、そうですか、あの失礼ですけどお幾つ?」。自分で何回も「六十三」「六十三」と発音するのにくたびれて「おかあさん。わたしゃ六十三だよう」とすごんだ声になる。何回も同じことをくり返すのにいらつきもするが、自分が六十三という事にだんだん驚いて来る。

 そのお母さんはついに子供へ戻ってしまいます。

「お母さんはおいくつになられました?」
「私、えっ私、そうねェー四歳ぐらいかしら」。

(中略)

 ついに四歳!!
 いつか四十二歳と答えられて、ショックを受けたが、大笑いもしたのだ。意地悪く私は云った。「そうか、私、母さんより年寄りになったんだ」。

(中略)

四歳。今日私は笑わず、しわくちゃの四歳を見て「ふーん」と思う。そういう事なんだよなあ、四歳。

痴呆を決して湿っぽく捉えない。だからといって、露悪的に書いているのでも決してありません。

お母さんの痴呆症から始まったご自身の年齢にまつわるエピソードは続きます。

先週はサトウ夫妻とシルバー割引きで「ハリー・ポッター」を観に行った。みんなでキャーキャー喜ぶ。「すごいよね、八百円得したよね」「うれしいねェ」「どんどん映画観に来よう、ウッハハハ」。しかし私はへその下の方が不機嫌だった。「シルバー」と私が叫んだ時チケット売りの女の子は私の面を見て、すーっと券を出したのだ。私は「あんた年インチキしていない?」と疑いの目で見て欲しかったのだ。

こういう感覚、最近だと電車内の席を譲るシーンにありますよね。せっかくお年寄りに譲ろうとしたら当人から「年寄り扱いするな、失礼だ」ってやつ。

お母さんとの会話で自分が六十三歳である事実に驚愕し、映画館のチケット売り場でそれをダメ押しされる。普段は意識しない「年齢」なるものにひとが気づかされる瞬間。

 

これはまた違うエッセイですが、佐野さんが農家のお嫁さんに質問します。

「農家にお嫁に来てよかったと思う?」ときいたら、「一日も思ったことない」「じゃあ、お商売屋さんは?」「ああ嫌だ。ペコペコおじぎするなんてわたしは嫌だ。口が下手だから」「それじゃあ、サラリーマンは?」「勤め人は心配だよ。何かあったら、何もないもん」「じゃあ、今度生れたらどうする?」「どこにも嫁に行かん」ときっぱり云った。

これ、世の女性みんなに聞いてみたいですね。
アタシならどうすっぺかなあ、公務員の嫁最強伝説?

でも、『千と万』の詩万ちゃんも嫁に行かないと言ってたけど、お父さんの千広は『そういう事を言う奴は大抵さっさと所帯持ってくんだよ……』と内心呟いておりました。

このお嫁さんは生まれ変わったら、ホントのとこどうなんでしょうね?

 

ワールドカップに大勢美男子が出ると聞きつけ、観てみたくなった佐野さん。
飛んで火に入る夏の虫のごとく異性に惹きつけられる世の男の生態に、その分析は向けられます。

 私の叔母は、叔父の事を生涯いやらしいと云っていた。一緒に電車に乗ると叔母が居ても、さささささと車輌の中で一番若くてきれいな女の前に立つそうである。

高校生の男でさえ、「今日は朝から運が良かったぜ。明大前の階段で、すげえカワイイ女子高生がころんでよ、パンツがちらっと見えたのヨ」。そういう日は、その日一日何か良い事がある様な、心が浮き立って楽しいそうなんである。

なんだそうである>女性陣

もうすぐ七十になる物書きの友人でさえ、「俺まだ大丈夫だって思うよ。だって街へ行くと若い女の子を見ると元気が出るもんね、ノースリーブになる季節がいい。二の腕のつけ根のあたりを見ると、生きているって素晴らしいと思える」。「ブスでもいいの」ときくと、「出来れば美人の方がいい」。

ハハハハハ(震え声)

サトウ君など、世の中の女を分かりやすく二分している。話の中で出て来る人を「どんな人?」ときくと、「それが美人なのよ」か、「美人じゃないけどね」としか答えない。

 これ書いているのは、男でなくて、女の佐野洋子さんですから念のため。

 最初のワールドカップの話に戻りますが、そんな彼女は、

韓国のアン・ジョンファン、イタリアの “イタリアの王子様” と言われている男、中田もなかなかである。

イタリアはトッティかな? なかなか見る目がありますナ。

 

こういう感じで軽妙な文章をものする佐野さんですが、お父さんの友人の息子さん・孔ちゃんが亡くなったときは「受話器を持ったままで床にペタンと」座ってしまうほど動揺します。

彼がおしめをつけていた頃から共に育ち、十代もお互いの家を行き来するような仲。しかし、商社マンになった彼はアメリカへと旅立つ。たまに電話もあったけど、直接顔を合わせることもなく、お互いいつの間にか還暦を過ぎる。

その彼が死んだことを知らせてくれたのは佐野さんの妹。もう一度会いたいとおいおい泣きます。

 孔ちゃんの死が私にショックを与えたのは、今まで全く感じた事のないさびしさだった。父が死んだ時とも、兄が死んだ時ともちがう。私達が老いて、誰にも死が近づいている。これから生き続けるということは、自分の周りの人達がこんな風にはがれ続けることなのだ。老いとはそういうさびしさなのだ。

彼女は自分のさびしさを赤裸々に述懐します。しかし、彼女のエッセイのすごさは、このあとに続く、最後の文章です。この文章が佐野洋子佐野洋子たらしめているのです。

 一ヶ月前床をたたいて泣いたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。生きているってことは残酷だなあ、と思いながら笑い続けている。

彼女は身の回りの出来事を斜に構えて見て、茶化しているからおもしろいのではありません。底抜けの善良さと弁解もできない愚かしさや不合理さ、これらがすべてひとつになって人間であることを佐野さんは知っています。
軽率に楽観視しない代わりに、無闇に悲観もしない。ひとを見る目の天秤がバランスを失いどちらか一方へ傾いたとき、彼女は皮肉を飛ばすという方法でその不均衡を正しているのです。

 

神も仏もありませぬ (ちくま文庫)

神も仏もありませぬ (ちくま文庫)