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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】読書好きな人が読むとこころが痛くなる-『読書について』

 本 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

哲学者なんて、身体も動かさず、頭のなかだけでうじうじものを考える、なまっちろい、よく言えばデリケート、わるく言えばナイーブなひと。

だと、思っていました。

しかし、ショウペンハウエル『読書について』を読んだとき、こういう激しいひともいるのか、と少し考えを改めました。

よほど自信があるのか、語尾のほとんどが言い切り、断定。
とにかく読んでいて、「なるほど!」「そうか!」「うははーっ!」と圧倒されっぱなし。

 

早速ですが、表紙にも書かれた有名な言葉から紹介しましょう。

読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。

『読書について』の本であるはずなのに、のっけから読書を否定。
でも、本や新聞の内容を受け売りで話すひとのことなんか想像すればわかりやすいです。いきなり変なことを口走るなあと思って週刊誌をチェックするとまんま同じことが書いてある。あ、うちの父親のことです。

 

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。

とくに現代のように、インターネットで情報がすぐ入手できる場合、情報の数を競ってもしようがありません。いかに集めた情報を体系的につなぐか。このことを「編集」といいますが、これからは「編集の時代だ」と言うひとが最近は増えました。

 

主観的関心が力をふるうのは我々の個人的な問題に限られ、だれでもそのような問題には当面する。しかし客観的関心は、思索を呼吸のように自然に行なうことができるほど天分に恵まれた頭脳に特有のものである。この種の人はごくまれである。ほとんどの学者がめったに豊かな思索の例を示さないのもそのためである。

学者だって、お金儲けがしたい、有名になりたいと思うわけです。
こういうタイプの学者さんは、大事件が起きるとテレビにわんさかあらわれ、ときに御用学者なんて言い方をされます。要するに、特定のグループや組織に対して利益誘導的な発言をするひとのことですね。
そういう気持ちを離れ、学問のために学問できるか、このことが重要です。

 

このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。重圧を加え続けると発条(ばね)は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。

最初から3ページにして、もはやこの調子。相当凹みますよね。
ばねの弾力を失わせているのは読書でなく、ショウペンハウエル、あんたやぁぁぁぁ!!!(笑)

 

でも、ここでわたしが最新の脳の研究からちょっとコメントしましょう。
脳は起きているときもですが、特にわたしたちが眠っているとき、頭の中身のクリーニングを行います。
新しい情報と古い情報を、あるいは新しい情報同士、古い情報同士を結合させる。それで意味のあるものは取っておくし、意味のないものは消去する。

夢などはこうした脳の自律的な活動が見えているものだというひともいます。だから、意味のわかる夢もあれば、意味のさっぱりわからない夢もある。

そうすると、くっつけたり、消したりするための情報をある程度頭のなかに叩き込んでおく必要があります。ですから、本を読むことも大事ですし、何よりも暗記という行為が重要になってきます。必要な知識は都度々々ウィキればいいと頭のなかを空っぽにしておくと、アイディアはひとつも生まれてきません。

本を惰性で読み、なおかつ読みっぱなしにしておくのでは無駄が多くなります。しかし、書いてあることをひとつでも多く吸収しようという姿勢の読書、吸収したものをどんどんアウトプットしようという姿勢の読書は、決して害にはなりません。結局のところ、それがショウペンハウエルの言う「思索」です。

 

閑話休題

ここからはわたしの解説をつけず、ショウペンハウエルの言葉をピックアップしてみましょう。

もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ心理と命が宿る。

つまり自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。  

読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

凡庸な書籍哲学者と自ら思索する者との関係は、歴史研究家と目撃者とのそれに等しい。

読書と同じように単なる経験も思索の補いにはなりえない。単なる経験と思索の関係は、食べることと消化し同化することの関係に等しい。経験がもし、いろいろなことを発見して人知を促進したのは自分だけであると大言壮語するならば、肉体を維持しているのは自分だけの仕事であると口が高言しようとするようなものである。 

 世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる。彼らは自分の理解力や洞察力のかわりに他人のものを動員できる場合には心の底から喜びを感ずる。もちろん動員したくても、もともとそのような力に欠けているのが彼らである。彼らの数は無数である。セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」からである。

いやあ、ガンガン攻め込んできますね!
わたしのことを言われているのかと思うと、こうやって引用していても胸が痛いです。でも、良薬口に苦し、です。ひとは良いことよりも、きついことを言われたときのほうが自分の振る舞いを反省します。

 

哲学書といっても、決して難解な本ばかりではありません。
哲学者といっても、決してもやしっ子ばかりではありません。
ショウペンハウエルのような戦闘的哲学者(?)も大勢いるわけです。本がお好きな方は、自分の「読書」をチェック、改善するために本書を一読するのもアリかと。

1960年に初版が出て以来、今年で第74刷になろうかという名著です。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)