Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【マンガ】西尾維新の物語に漫画家たちの個性がトッピング-『大斬』

大斬─オオギリ─ (ジャンプコミックス)

 

見ていると、毎月のように新刊が出ている気がする西尾維新さん。
もちろん、そんなことはありませんが、そう錯覚させるくらい速筆であることは間違いないようです。こんなまとめサイトがあるくらいですから。

matome.naver.jp

 

1日の最高枚数が200枚? 単純計算で、80,000字?
15日間で1,000枚? 1日に66.666…枚?

桁違いすぎて、自分と比較する意味も意義も見いだせません。
今日はそんな加速装置を3つつけた島村ジョーのような西尾さん原作のコミックをご紹介、『大斬』です。

 

西尾維新さんが与えられたお題に対してネームを考え、それを9人の漫画家が銘々のイマジネーションを駆使して作品に仕上げます。

各話ごとに画のタッチが大きく変わりますが、通して読んでみると、やはりそこには西尾ワールドが広がっています。
微妙に歪んだ世界観、饒舌なキャラクターたち、予測不能なオチ。

ご本人が解説で書いていますが、9本の物語は『いい話』『怖い話』『シュールな話』に分類できます。これ、穿って考えれば、読者にウケる話とは、この3つのカテゴリーに集約されるのかもしれませんね。

 

いつもなら個々の作品をかいつまんで紹介するところですが、今日は趣向を変え、解説にある西尾さん自身の文章から、彼の創作に対する心構えなり考えなりを拾い出し、そこにわたしがコメントをつけさせていただきます。

とはいえ、どんな方々がマンガを描いてるくらいは(敬称略)。

暁月あきら
小畑健
池田晃久
福島鉄平
山川あいじ
中山敦支
中村光
河下水希
金田一蓮十郎

 

僕は弱い者は弱い者なりに、変な奴は変な奴なりに、不幸な人は不幸な人なりに、幸せになるような話を描くのが好きなのですが、

漫画の中で生きてて駄目な奴なんていない。

最近、犯罪に関するノンフィクションを読んでいます。
ある臨床心理士の先生が、「附属池田小事件」の宅間守や「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の宮崎勤に実際に接見し、彼らのこころの闇を探ります。

そこで著者が述べているのは、彼らにも「三分の理」があるということ。
決して犯罪を擁護しているわけではありません。
ただ、マスコミが面白おかしく書きたてるような本人の異常性よりも、彼らをそこに追い込んだ環境にもっと原因を探るべきだろうと。

物語を創造するひとは、ヒーローから悪役まで多彩なキャラクターを扱わなければなりません。そういうひとが、マスコミのわかりやすい解説に従って「ひと」をカテゴライズしていたら、早晩物語が薄っぺらくなるでしょう。
理解不能なひとを理解しようとするときに、そこに今まで見えてこなかった物語の奥行きが生まれます。

 

三本目のテーマは、元々は『スポーツ』だったのですが、いつものように独自性の強いスポーツで攻めようとしたのを見抜かれて、世界一有名なスポーツ『サッカー』となりました。それでも諦め悪く、リフティング漫画にしようかと企まないでもなかったのですが、これを逃せばたぶん二度と訪れない機会だからと、テーマに正面から挑むことにしました。 

 『これまで作らなかったものを作った』という達成感があった僕としては、もう少しだけ、この企画を続けてみたくなりました。

普段やり慣れていないことをやるときって、手際が悪い自分に対してイライラすることがありますよね。わたしもよく「あたしって、ほんとバカ」とひとりさやかちゃんになって呟いていることがあります。

そもそも手際が悪いのは、脳のなかにそのための回線が構築されていないから。
そして、そこを刺激してニューロンやら何やらが伸びて結線されるには、数週間単位の時間が必要。少なくとも一時間や二時間でどうこうなる話ではない。

でも、つながってしまえば、あの苦労は何だったんだってくらい、当たり前になってしまいます。だから、逆に、苦手なものから逃げてばかりだと、極端な話、脳のなかがどんどんスカスカになるわけです。

苦手だからこそ突っ込んでいく姿勢、忘れたくないですね。

 

ところで、『大斬』の原作ネームがすべて好調のうちに作ることができた理由のひとつに、『連載を考えていない完結感』があります。

どうしても漫画文化は連載作品が主流で、読切作品も連載へつなげることを意識した『続きもの』になりがちですが、しかし独立した読切だからこその面白さは絶対的にあるはずで、

今の週刊誌漫画、月刊誌漫画に馴染んでいると、連載こそ物語の命だと思ってしまうのもしかたありません。
毎週、もしくは毎月わたしたちの手元に届けられる「クライマックス」は、ある種の麻薬と同じでしょう。中毒性すらあります。

しかし、物語とは、基本、読切を前提にしたもの。
長い作品でも全体の構想ありきで、一度では描ききれないから連載にするのです。
作りながら続きを構想していくというのは、本質的にはかなりなムチャぶり。
ただし、執筆中にアイディアが湧いてきて湧いてきて、というのは、これとは別です。ぜひ、そのアイディアを作品に使っていただければと思います。

ドラえもん』や『ブラック・ジャック』のような国民級の漫画だって、基本は一話完結ですからね。わたしもまずは短編の精進を心がけたいと思います。

 

まあそろそろ終わりを見据えて、えぐい話も一本くらい必要だろうということで。いい話に偏ってしまうと、それもそれで嘘っぽいから。

最小限の登場人物で話を回す作り方も、完全に確立しているようです。

これも得意・不得意と似た話ですが、ひとってやつは野放しにしておくと、ホント、自分の好きなことしかしません。
わたしも興味の赴くままに本を読んでいると、たいがい同じジャンルのなかをグルグルしています。そういう呪縛から自分を放ちたいときには、ひとさまの書評を大いに活用させてもらっています。

全体に目を行き届かせ、バランスを取るためにあえて逸脱していけるってこともプロの条件であるかもしれません。
苦手だと思っているものにチャレンジしているうち、いつの間にか自分の十八番になっていたなんてことはよくあります。 

 

楽しく働いて、面白い本が読める、そんな幸せな時間がいつまでもずっと続けばいいと願います。

わたしの基本もここですね。
創作をするのも、本を読むのも楽しいからで、それを惰性ではなく長続きさせていくために、いろいろ工夫をこころみる。

わたしの場合、これからも苦手な本をどんどん読んでいこうと思います♪
あ、創作も。