【 本 】「猫好きに悪い人はいない!」-『にゃんそろじー』
こんにちは、猫が好きなのに猫アレルギーという野々宮さくらたんです。
猫がそばにいると、最初はくしゃみ、そのうち発作がおきてくるので、結構シャレにならんス。でも、嫌いになれないんだよなあ。
あのすべすべした頭やとんがった耳、歩くときなんかの艶めかしい筋肉の動き(マニアック!)などなど、どれをとっても思わずちょっかいをだしたくなってくる。
今日、ご紹介するのは『にゃんそろじー』という、猫をモチーフにした小説やエッセイを集めたアンソロジー。
この手の作品は、探してみると、結構ちまたに溢れかえっているのですが、タレントのしょこたんこと中川翔子さんが編纂をしたという点が、興味を惹かれたポイント。
早速、どんな作家が顔を並べているかを見てみると、なになに……
夏目漱石、幸田文、内田百閒、吉行理恵、筒井康隆、青木玉、角野栄子、村上春樹……。
古今の幅広い顔ぶれが揃っています。しかも、センスよし。
中川翔子さんの読書の「厚み」をうかがわせますナ。
作家の目を通した猫とそれを取り巻く人間の姿。
そこには、笑いもあれば悲哀もあります。
猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節を掛けた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、大抵は茶の間の箪笥の上へ載せて置くようである。
(夏目漱石「猫の墓」)
知人が死んでワーワー泣いたけど、一ヶ月もしたらテレビの馬鹿番組を見て笑っている。佐野洋子さんが書いた、ひとが生きることの残酷さが、漱石の文章からも汲み取れます。去る者は日々に疎し。うーん、冷たいようですが、そうなんですよね。
just-melancholy.hatenablog.com
宮沢賢治「猫の事務所」、これもまた切ない。
猫がお役所仕事をしているという設定自体はユーモラスなのですが、そのなかで一匹の猫だけがみんなからいじめられるのです。そのいじめられる猫の健気な感じが、一層哀れさを滲ませます。
切ない猫エッセイといったら、内田百閒「クルやお前か」にまさるものはありません。愛猫・クルの病気とその死、そして呆然となったままのその後の生活が日記形式で綴られます。
ところが後でクルがさっき飲んだ牛乳を戻したので、矢っ張り駄目かと可哀想になり泣いた。涙が止まらない。
依然何も食べない。すでに骨に毛が生えた程やせている。
そんな体力はない筈のクルが卓袱台に上がって、家内の湯呑み茶碗を引っくり返していた。水が飲みたかったのかも知れない。
こんな描写に愛猫家のかたなら胸が痛むでしょう。
「クルやお前か」は猫を扱った文芸においては一級の作品と言われています。
ちなみに、「クル」の名前は、尻尾の短さに由来。
短いことをドイツ語で「クルツ(短い)」といいます。
しんみりしたところで、今度は、筒井康隆「「聖ジェームス病院」を歌う猫」。
扶枇の侍が 今後の備えに 四つ足を引いて割ったら にゃあと鳴いた
この猫の虐殺歌にどのような意味が隠されているのか。
最後まで読むと、あまりのバカバカしさに思わずニヤリ。
でも、こういうすっとぼけた感じ、嫌いじゃないです。
町田康「猫について喋って自死」。
これはもうタイトルだけで吹き出してしまいました。
この言語感覚、並みではありません。やっぱ、プロの作家さんは違うなあ。
拙宅にも猫が二匹いて……、と書いて、既に心理的抵抗を感じるのは、この二匹という言い方で、匹というのは、疋とも書き、鳥や獣を数えるのに使う言葉であり、だから、拙宅にいるのは猫なのだから、何の問題もないといえばないのだけれども、どうも割り切れぬというか、思い切って申し上げると、私としては、これを、匹、とは言いたくないのであって、じゃあなんなんだ、と言われても困るのだけれども、うーん、困った。じゃあ、本当の本当の事を言うと、恥を申し上げるようだけれども、言いますと、
「私はこれを二人と言いたい」
このことを伝えるために、これだけの前置きが必要という。
町田さん、可愛いです♪ 気持ち、すごくわかります!
加納朋子「モノレール猫」は、猫をメッセンジャーに使い、手紙のやり取りをしたふたりの少年の物語。
こんなこと、あるわけないじゃん、と思いつつも、読み終わったあとは、なんかほのぼのしちゃいます。わたしはとても好きな作品でした。ちょっと、お伽話っぽいかな。
こんな感じの総勢20作品。
猫好きならどの作品も楽しめるでしょう。
さほどでないというひとも、一冊の短篇集として読み応え十分です。
中川翔子さんの彼らへの愛情ゆえに誕生した本書をぜひみなさんもお楽しみください。