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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】意識高い系がもたらす喜劇、現代人の寓話-『ゴドーを待ちながら』

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 

読んでいて、意味がわからなさすぎてワロタ!/(^o^)\
で、読解モードのレベルをぐーんとあげたヨ。
当分、このレベルでは書きません♪
……疲れた。

 

ゴドーを待ちながら』の概略

「パリ直輸入の爆笑コメディ」という謳い文句と共にアメリカで初日の幕を開いた『ゴドーを待ちながら』。ところが、幕間(第一幕と第二幕のあいだの休憩時間)のあとまで残っていた客は、テネシー・ウィリアムズウィリアム・サローヤン、そして出演した俳優たちの家族だけという惨憺たるありさま。今風に言うなら、問題作、ブーイングの嵐といったところでしょうか。

それほどに観客からそっぽを向かれた『ゴドーを待ちながら』という作品は、どんな舞台なんでしょうか。

原作はサミュエル・ベケット。20世紀の初頭に生まれたアイルランド人。第二次大戦中は、フランスのレジスタンスグループに加わり、ナチスとも戦ったというなかなかの硬骨漢。戦後、パリに戻ると、作家として精力的に活動。

小説三部作『モロイ』(1951)、『マロウンは死ぬ』(1951)、『名付けえぬもの』(1953)が有名ですが、あいだの1952年にこれら三部作とは別に執筆された本書『ゴドーを待ちながら』が不朽の名作として評価されるようになりました。

  

作品に登場するのは、わずか5名。

エストラゴンとウラジーミルという浮浪者。
ポッツォとラッキーという主人と奴隷。
そしてひとりの少年。

エストラゴンとウラジーミルは、作品のなかでは理由を明かされぬまま、ゴドーという人物があらわれるのを待ち続けます。そのあいだ、意味のあるようなないようなおしゃべりが交わされ、実りのない時間が過ぎ去っていきます。

途中、ポッツォとラッキーという主従が通りすがり、言葉を交わしますが、これもどこかすれ違い。お互いに意味が通じているかいないか判然としません。

そして、一日が終わる頃になると、ひとりの少年があらわれ、今日はゴドーがやって来ないことを告げます。ここで第一幕終了。第二幕も大同小異、似たようなことがリフレインされます。

 

アリバイ作りのための多弁

登場人物たちの会話が噛み合っていないような不整合感、不連続感は読んでいて(演劇なら鑑賞していて)、不安になります。

ときおり繰り返されるフレーズ。

「ゴドーを待つのさ」

「ああそうか」

エストラゴンとウラジーミルのふたりは、彼らがなぜそこにいるかを忘れかけるたびに、その目的を確認します。強迫神経症に罹った患者が自分の行為を何度も確認しないではいられないようすに少し似ています。

しかも、ゴドーを待たねばならない理由が物語中では一切語られません。ふたりの「待つ」という行為は、「待つこと」自体が目的になっているような落ち着かなさをいよいよわたしたちに感じさせます。

劇中のふたりも自分たちのそうした実存的な空白を埋めるためだけに、言葉を延々と発しているように見えます。空っぽだからこそ、語ることでしか自分の存在を確かめられないように。

仕事のために資格の勉強をしているはずなのに、いつの間にか勉強することが目的になってる。「その資格を取ってどうするの?」という質問への答えがない恐怖から目を背けるために、いよいよ資格勉強へのめり込む……そういうこころの空白です。 

そのことをもっともグロテスクに示すのは、ポッツォの従者・ラッキー。彼はほとんどしゃべることがなく、主人であるポッツォの気まぐれというか、いじめに近い命令に黙々と従うだけの奴隷的存在。「思考しない=空白」の象徴といえるでしょう。

その彼に座興として「考えること」を命じるシーンがあります。すると、彼の口からはこんな言葉が立て板に水で飛び出してきます。

前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時かか間と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがてわかるであろうがなぜかわからぬ多少の例外を除いてまさにわれわれを愛し神的ミランダのごとくやがてわかるであろうがなぜかわからぬ苦しみの中に火の中にある人々とともに苦悩しそしてその火のその炎がたとえわずかでももう少し続くならばそしてなんびともそれに疑いをさしはさみ得ずついには天の梁に火をつけるであろうつまり地獄を焼く火は今日なお時にかくも青く静かに断続的でありながらしかもなお歓迎すべきである静けさを……(以下、省略)

何を言っているかわかりますか?
わからなくていいのです。ここには意味など何もないからです。

沈黙が耐えられなくて、話し続けるひとが世間にはいます(かく言うわたしもそうかも)。でも、それって「わたしは頭を使っている」というパフォーマンスだったりしませんか? つまり、考えているように見せるアリバイ作りです。

 

多弁の空虚さ 

自分に自信があるひとほど、多弁を弄しません。
逆に、自信がないひとほど、そのことを埋め合わせるように話しまくります。

就活の面接経験があるひとなど実感としてわかるでしょう。

ネットには、情報が溢れかえっています。しかし、それを延々読み続けることで、ひとは本当に能動的に物事を思考するようになるでしょうか。かえって、条件反射的に情報に振り回され、考えない癖がつくようになりはしないでしょうか。

読む対象を「本」から「ネットの情報」に読み替えれば、ショウペンハウエルの次の言葉がすっぽり当てはまります。

読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。 

just-melancholy.hatenablog.com

 

情報が溢れれば溢れるほど、ひとが弄する言辞も幾何級数的に増えていく。わたしだって考えてるんだからね、ってところを見せたいですから。しかし、その言葉の中身は自分で考えたものでなく、他人の受け売りなので、ポッツォの従者・ラッキーの語りが象徴するように空っぽなのです。自分の言葉が空っぽで不安だからこそ、それを埋めるためにひとはさらに話し続けるという循環構造。

インターネット漬けになっている現代人の頭の中身を腑分けしたら、ラッキーのような空疎な言葉が山ほどこぼれだしてくるかもしれません。

エストラゴンとウラジーミルは、ひっきりなしに話します。
そうした多弁が、ゴドーを待つ理由の不在からくる不安とそれを直視したくないという思考拒否からであろうことはうえに書いたとおりです。
一方で、彼らの態度には、不安だから行動を起こすのではなく、ただひたすら時間つぶしのために言葉を弄んでいるようすもあらわれています。
ここにもうひとつ、ゴドーを待つことからくる彼らの屈折した心理が読み取れるのです。

 

目標に支配される人生

ひとが未来に目標をもつこと、夢をもつことの危うさをこれまでにも取り上げてきましたが、そうしたことが本書からも読み取ることができます。 

エストラゴンとウラジーミルは、なぜだかわからないままに、ゴドーという人物を待ち、その場所に足どめされています。来ないと見切りをつけて、どこかへ立ち去ろうにも、一日が終わるころになると、少年がふたりのもとへやってきて、ゴドーが今日は来られないことを伝えます。今日来なくても、明日なら来るかもしれないという期待。そのことが彼らを拘束し続けます。

そのようなゴドーを待ち続けるふたりの人生は、ゴドーが来れば意味を持ちますが、来ないという結末になれば無駄だったと見なされます。人生の意味が、当事者の手を離れ、ゴドーという見たことも聞いたこともない人物の存在に委ねられてしまっているのです。ゴドーという人物の来訪に「相対化」されるふたりの人生の価値。

しかも、目標が先送りされるたびに、ふたりがそのために費やした時間も増大していく。すると、これまでにつぎ込んだ自分の労力がさらに自分を目標に縛りつけるという堂々巡りが生じるようになります。

一浪したひとが、二浪、三浪と重ねていく心理を想像すれば、わかりやすいでしょう。パチンコでもいいと思います。投資した時間・金額が大きいほど、それに見合った回収がなければ、文字通り、元も子もなくなるから離れられないのです。

こうなってしまうと、「わたし」が「目標」のために生きているのか、「目標」が「わたし」を生かしているのか、わけがわからなくなってきます。前者は、ひととしての主体的行動を意味しますが、後者にはひととしての意志がありません。しかも「目標」がみずから選んだものならまだ救いがありますが、だれかに「目標」だと思わされているだけだったりしたら。

 

失われる過去、消える未来 

目標が達成されなければ意味を持たない人生であるなら、現在から目標へ到達するまでの道のりは短いほうがいい。もっと言えば、ないほうがありがたい。だから、目標までの道のりを縮めるべく、時間は一刻も早く消費されるべき「もの」へと変質します。

 

ゴドーに会えるまでの時間をふたりは、

退屈しのぎさ。 

そして、不毛なりに時間が経てば、それだけ目標に近づいた気がしますから、

おかげで時間がたった。

 

エストラゴンとウラジーミルが、意味もない会話を延々と交わし続けるのは、時間を消費するためなのです。目標に前のめりになることで、現在を味わうことなく、ただ呑み込んでいく。現在をないがしろにする。現在を忘れる。

大食い競争で、完食を目指し、食べ物を流しこむのと同じです。この場合、もはや、食べ物は、食べ物であって食べ物ではない、ただの「もの」です。

ですから、エストラゴンは、物語が第一幕から第二幕へ移ると、前日(第一幕)にあった出来事をほとんど覚えていません。「過去」は「現在」を蓄積したものですから、現在を疎かにしていれば過去もなくなる道理です。

現在をスーパーソニックに生きてきて、過去を振り返ったとき、わたしはこれまでに何をしてきたんだっけ、という感覚。

しかし、過去をもてないそんなエストラゴンにも、ゴドーが訪れるという「未来」だけは残されているように見えます。ところが、未来もまた、現在を積み重ねることによってのみ到達可能なものです。現在という時間をぞんざいに使っていれば、当然未来に対する展望も何も開けるわけがありません。

時間を漫然と生きてきたがために、自分がどこへ向かっているのかわからなくなってしまった感覚。

ですから、エストラゴンとウラジーミルは未来を忘れかけるたびにゴドーを待っていることを思い出すという強迫的な反復行動を繰り返すのです。

目標を設定したがために、現在も、過去も、そして未来も消えていく、そうした現代人の生き方がこの戯曲において描かれています。

 

究極のアイロニー 

そして、これが本作における最大にして、最高のアイロニーなのですが、この正体不明のゴドー氏は「Godot」、「God(神)」にフランス語の愛称的縮小辞をつけたものではないかと言われています。つまり、日本語でなら「神ちゃま」。

エストラゴンとウラジーミルのふたりは、本来祝福を授けてくれるはずの神の来訪を「目標」にしたがゆえに、現在も過去も未来も失ったのです。

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あまりに硬い話が続いたので……。
ただ、神は一元性の存在ですから、神に接近すると時間の観念が消失するという考え方もあります。

 

なんという滑稽さ、なんという皮肉でしょうか。
しかし、この神は何も宗教的な意味だけでとらえる必要はありません。
現代では、「資本主義」も「合理主義」も「原理主義」も「中華思想」も「憲法」も「正義」も「平和」も「人権」も「平等」も「権利」も「自由」も「やりがい」も「居場所」も「知性」も「教養」も「リベラル」も「保守」も「学歴」も「コミュニケーション能力」も、何だって神の座に居座ります。

わたしたちが神の福音を待っているのか、それとも福音の予感に縛りつけられているだけなのか、どちらなのでしょう?

 

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ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)