【 本 】エヴァも真っ青な情報操作、矛盾を内包するミステリアスな女性-『マグダラのマリア』
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に残る、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』。そのなかのこのひと(赤丸)。
拡大したものが以下。
ここに登場する、イエス・キリストと十二使徒は全員男性。
……だと考えられてきました。少なくとも、聖書のなかの記述ではそうなってる。
ところが、映画『ダ・ヴィンチ・コード』のおかげで、イエスの左に座るこの人物が女性かもしれないと、日本人のだれもが知るようになりました。
わたしも以前から「なよっとした男だよな、若者だからそうなのかな」と思って、見ていました。面差しは丸みを帯びてますし、目元も優しげ。
従来、彼はゼベダイの子ヨハネだと見なされてきましたが、彼女がマグダラのマリアではないかと解釈したのがラングドン教授(ダ・ヴィンチ・コードの話ね♪)。
今日は、ヨハネかマリアかを検証するのではなく、そもそも彼女が何者であるのかを考察した一冊、『マグダラのマリア』をご紹介します。
彼女は彼女なりに謎に包まれており、ちょっとミステリーな味わい♪
毀誉褒貶するマグダラのマリア
そもそも売春婦だった彼女は、イエスの教えに目覚め、回心したというのが今に伝わる定説。回心した彼女は、イエスとの福音の旅、磔刑、埋葬、そして復活などの重要シーンに登場。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、細かい点に相違があるものの、おおむねその事実を今に伝えています。
ところが、肝心の売春婦から回心をしたという具体的なエピソードはどこにもない。ルカだけが
「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア」
と彼女の素性に触れているだけで、その出自は非常に曖昧です。物語のなかに立派な女性として突如あらわれ、イエスが復活に至る見せ場をいいとこ取り、みたいな。
四福音書では、マリアに対するそれぞれの温度差が見て取れます。
マタイ、マルコ、ヨハネの三者は、キリスト復活の証言者として、そのようすを弟子に伝える者として、彼女の存在を肯定。
それに対し、ルカだけが
「使徒たちには、この話はたわごとに思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(24:11)
となかなか辛辣。
かと思うと、イエス復活に対する彼女の反応を、マタイは喜びと興奮で描写、
「彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走った」(28:8)
それに引き換え、マルコは、
「すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そして誰にも言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)
とチキンぶりを強調。
あたかも現代のマスコミによる印象操作のようです。
今回、ここに詳しくは取り上げませんが、ペテロとマグダラのマリアの非難合戦など、ほとんど子供の喧嘩。
「お前なんか信用できるかババア」とペテロが癇癪をおこせば、
「わたしが嘘をついてるっての?」とマリアが泣きながら応酬。
女の涙が武器であることは、聖書の時代から始まっていたのです(笑)
原始キリスト教の時代は、わたしたちが現代のキリスト教に抱く先入観からは思いも寄らぬほど、女性蔑視があったようで。
これはそもそもエデンで「男(アダム)」に禁断の実を食べさせたのが「イヴ(女)」だったという事実から始まっておるわけですが。
罪深い女とマグダラのマリアの接合
さて、疑問は最初に戻ります。
使徒たちによってもこれだけ評価の割れるマグダラのマリア。
そんな彼女が、何の前置きもなく、いきなり聖書のなかに介入してくるのは不自然です。
彼女は本当に実在したのでしょうか。
結論を先に言いますと、彼女は先行するキャラクターたちの合成によって、かなり戦略的に作り上げられたとするのが本書というか、聖書研究家の一般的な考え方のようです。
まず、見るべきはルカ伝第七章。そこに「罪深い女」が登場します。
彼女は売春婦、罪とはその売春のことです。
泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。(7:38)
この行為によって、女は売春の罪を許されます。
そして、直後の第八章にいよいよ本命・マグダラのマリアが登場します。
「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア」(8:2)
マリアに取り憑いた七つの悪霊とは、「七つの大罪(邪淫・貪食・貪欲・怠惰・憤怒・羨望・高慢)」に違いない。キリスト教的世界観において、この連想は簡単に起こり得るものでした。
七つの悪霊が七つの大罪であるとはどこにも書いてないのに、両者の記述場所の近接性、加えて、「罪」と「七つの悪霊」を(強引に、意図的に)つなげた解釈。
これらのことが、売春婦である「罪深い女」と「マグダラのマリア」を同一人物にしてしまいました。
完結する矛盾
さらに、ここにもうひとり「ベタニアのマリア」という女性がいます。
彼女は、マルタという姉とのふたり姉妹。
あるとき、イエスが姉妹の家を訪れました。姉・マルタはもてなそうと家事で忙しくしているのに対し、妹・マリアは彼のそばに座り、話を聞いているだけ。
わたしたち日本人の感覚からすると、ここで褒められるべきは姉のマルタです。
ところが、キリスト教においてはイエスの話を一生懸命聞くマリアのほうが立派だとされます。これは活動的な生よりも瞑想的な生のほうが評価される宗教ロジックです。
釈然としない気持ちはひとまず置いておくとして、ベタニアのマリアは話を聞くだけでなく、イエスに対し「罪深い女」と同じ振る舞いをします。足を髪で拭くのです。
このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。(ヨハネ伝11:2)
ふたりの女の振る舞いが同じなのはまったくの偶然ですが、ここでまた「罪深い女」と「ベタニアのマリア」が同一人物であるという判断がくだされます。
つまり、「罪深い女」を中心に置き、「罪=悪霊」というキーワードをによって「マグダラのマリア」を、「足を髪で拭く」というエピソードによって「ベタニアのマリア」をそれぞれ連結させたのです。図式にすると、こうです。
売春婦にされたマグダラのマリアに、今度はベタニアのマリアの宗教的敬虔さという属性が書き加えられました。
ここに、売春婦でありながら聖なる女性でもあるという矛盾を抱えた、ミステリアスなキャラクターが誕生したのです。
いやあ、どうしてどうして、キリスト教というのは教義の一貫性を維持するために、この程度の情報操作はお手のものなんですね。
いわばハイブリッドなマグダラ像は、こうして、罪人たちにとって悔い改めと希望の模範となり、キリストへの敬虔な奉仕と瞑想的生活の理想となる。
どんな罪深いひとでもイエス・キリストは救済してくれるんだから、信心深くしなさいよ、ってなもんです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』に描かれたゼベダイの子ヨハネがマグダラのマリアかどうかというミステリーも面白そうですが、彼女にもこれだけの裏情報があるのです。
宗教なんて黴臭いものはちょっと……というかたも、見方を変えれば、このように興味をもってもらえるのではないでしょうか。
ちなみにさくらたんはばりばりの仏教徒なので、キリスト教の勧誘ではありません。ご心配なく♪