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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】男の生きざまは背中が語る、日本の背中はどうだ?-『孤客記 背中のない日本』

 本 

孤客記 背中のない日本

 

松岡正剛さん。
テレビ番組に出演したり、クールジャパン座長代行を務めたり、マルチに活躍なさっていますが、その肩書を一言でいうと編集者。情報をどのように集め、ハンドリングし、そして、その先へ展げていくか。そうしたことを目論む「編集工学」という研究分野を立ち上げ、「情報はひとりでいられない」という名言も生みました。御年早70歳ですが、まだまだ執筆意欲は旺盛。

 

そんな松岡正剛さんが、1990年代に足掛け3年にわたり、雑誌『エコノミスト』に投稿した記事をまとめた一冊『孤客記 背中のない日本』。基本、そのときどきの時事ネタを絡めたエッセイなのですが、その含蓄ある言葉や膨大な教養には驚きを禁じえません。今から四半世紀も前の本なのに、現代へのヒントに溢れています。今日は本書より、わたしが考えさせられた言葉を、わたしのマズいコメントとともに何点かご紹介します。

 

ちなみに、松岡さんの教養の一端は「千夜千冊」というこちらのサイトでかいま見ることができます。ご興味のある向きは、どうぞ。1,500冊を越える知のアーカイブです。

 

神曲』冒頭は、実はダンテとウェルギリウスが地獄に落ちていくところから始まる。ルネッサンスの手前には、地獄が必要なのだ。

古典文化の復活として目されるルネッサンス。そこには日本人にもおなじみの数々の名画や彫刻、建築、文学などがあり、わたしたちの感性を喜ばせてくれます。しかし、ルネッサンスの直前が中世暗黒時代だったことを考えると、ひとが新たに生まれ変わるには、暗黒とも称される期間がその前段に助走として必要なのかもしれません。今の日本が置かれているのは暗黒の真っ只中? そう思えるなら再生のチャンスがあります。

 

 情報をすばやく切り替えなければ気がすまないという現象は、必ずしも情報の多様性がほしがられていることとは結びつかない。なぜなら、目の前の提示情報がマルチウィンドゥに切り替わればいいということと、その情報の質が変化しているということはまったくちがうことであるからだ。

情報量の増大とその質が高くなることは必ずしも比例しません。料理で喩えるなら、お造り、煮もの、焼きもの、揚げもの、そして〆のご飯のコース料理とマックとバーガーキングウェンディーズとモスとフレッシュネスバーガーを並べたテーブル。数だけ見れば、どちらも同じ5品です。しかし、どちらがよりひとの心を豊かにしてくれるか。わたしたちの日常を取り巻く情報はどちらなのでしょう?

 

 日本にもたびたび訪れている宇宙飛行士のラッセル・シュワイカートが、「地球に近づくにつれ胸がきしむのは、しだいに国境を意識せざるをえなくなることだ」と言っていた。老いてますます冴えきっている埴谷雄高が「憎悪の起源は国境にある」と書いたのは、三十年前のことだった。 

国境に限らず、人種、性別、能力、思想など、ひとはあらゆるものを区別します。世界をまるまる理解することは困難ですが、分けることで、別けることで、それは可能になります。「自分」「区分」「識別」「判別」「分別」‥‥‥。赤ちゃんは、母親と分かれることで初めて、この世にひとつの人格として誕生します。しかし、分かれることが争いの始まりでもあるのです。

 

 たとえば、われわれはつねに忘れ物をする。財布や封筒を忘れるということだけではなく、誰かと話して「それじゃ、またね」と別れたとたんに言い忘れたことを思い出すということもある。これはわれわれの思考の中に重要な隙間がひそんでいるということで、この隙間があるので日々の思考も行動も維持できている。

本来、日本人は、余白や隙間、そうしたぽっかり空いた空間を大事にしてきました。書道の場合、書かれた文字ではなく、書かれていない余白にこそ価値があるなんてことを言うひとも。現代都市では、空間恐怖症といいますか、あらゆる隙間を埋めるように建物が林立しています。これではいずれひとの居る場所もなくなっていくのではないでしょうか。

 

ところが、このところ憤懣をぶちまけるのが苦手な時代にさしかかったのか、各メディアはやたらに “代理人” を使うようになってきた。舛添要一ビートたけしの口舌に胸のつかえを降ろそうという企図である。そこに新たな問題が生じる。ヘタな憤懣吐露がはびこって、かえって本物の憤懣がまぶされてしまったのだ。

ネットにはびこるさまざまな「意見」には、的を射たものもあります。一方で、悪意ある改竄や意図的な歪曲や誇張がなされたものもあとを絶ちません。売名だったり、単なる目立ちたがり、あるいはトリックスターとして、その目的もさまざまです。こうなると、わたしなどのように情報リテラシーの低いひとは何を信じれば良いかわからなくなります。

 

わたしは情報機械というもの、GIGOの定理をもっていなければならないと思っている。「くだらないものも入り、くだらないものも出ていく」(garbage in, garbage out)という原則だ。
 これを多くのシステム産業にかかわる人々は「いろいろ入れて、福音を出す」(garbage in, gospel out)というふうに曲解してしまう。そこが機械信仰や技術進行になるところなのである。

何に価値があり、何に価値がないかを見極めることは、ラプラスの魔ではありませんが、世界の果てまでをも見通す力がなければできません。ところが、最近では年単位どころか、月単位でその判断をくだせ、というふうに社会が動いています。大学から人文系学部を削り、理工系を増やそうというのは、まさに機械信仰、技術信仰極まれりといったところでしょう。

 

いま、やたらに「共生社会」という掛け声が高まっている。シナジー効果をめざしたホロニックな活動は、一面たしかに理想的である。しかし、社会協調関係の度合いが増せば増したぶんだけ、実は社会的手抜きの率も大きくなっていることを見逃さないほうがいい。

会社組織で、本当に利益を出しているひとはどれくらいいるでしょうか。「絆」という掛け声のもとに集まったひとびとは、本当に自分の持てる力を最大限発揮しているでしょうか。手抜きはしていないでしょうか。徒党を組むことは、大きな力への幻想でひとの心を捉えますが、実は責任の所在を曖昧にし、本来の目的を見失わせます。 

 

しかし、ひとつ言えることがある。それは、日本の官僚制度にも自民党による一党独裁政治にも、あまりにも中断がなさすぎたということである。まさに連綿と続いてきた。続行も大事だが、そのあいだに “創造的中断” をもちこんでおくべきだった。そうでなくては必ず疲弊する。前に書いた「サステナビリティ」(持続可能性)の問題もそこにある。長く続けばそれでいいというものではない。

ひとには休憩が必要です。創作活動にも充電期間が必要です。継続は力なりと言いますが、一方でマンネリズムを生みやすく、その後、みずからの賞味期限切れの客観的把握を麻痺させます。まさに、惰性。社会が長寿化し、切れ目が長く訪れなくなることも社会全体のマンネリズムを生みます。現代の「会社」によく見られる光景です。

 

カリスマ出現の基盤は、もともと自己喪失願望にある。幼児期の自他未分化の状態に回帰してしまいたいという気持ちがカリスマを準備する。

問題が山積し、悩むことに疲れたひとたちは、自分でくだすべき決定を他人に委ねてしまいます。「わたし」を放棄し、母親の懐に抱かれ、うつらうつら夢心地。そうしたとき、「カリスマ」があなたの心の隙間に巣食うのです。身の回りに問題が多すぎるときは、解決策を求めるのではなく、あえてその問題自体から降りてしまう勇気も必要です。

 

では余計は無益なのかというと、必ずしもそんなことはない。たとえば都市(とくに繁華街)を整備しすぎると、余計がなくなってさびれてくるという実例がいくらでもある(この余計を界隈の「隈」という)。一方また、漱石のように積極的に人生の余計者を擁護しようとした見方もある。

普通の自動車のハンドルには「余計」がついています。正確には「遊び」といいますが。これがないと、F1のハンドルのように、ちょっと切っただけで車の進行方向が大きく変わってしまい、非常に危険です。ドライバーには片時も途切れることのない集中力が要求される。 社会から余計をなくしていくと、どんどんひとの精神が締めあげられていきます。みなさんはちゃんと余計をお持ちですか?

 

最近では、ちょっと入手しづらい本ですが、図書館などで見かけたら、ぜひご一読ください。 現代社会をどのように考えればいいか、そのヒントを必ず与えてくれるでしょう。

 

孤客記 背中のない日本

孤客記 背中のない日本