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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【雑 文】民主主義の背後に口をあける魔法の世界

雑 文

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今日は、平山夢明さんの『メルキオールの惨劇』について書こうと思ったのですが、だらだら書いているうちに変な方向に話が進んでしまいました (^o^;) わたし、こういうことがよくあるのですが、読者のみなさまにおかれましては、またこいつ脱線してると、暖かく見守っていただけますよう。

 

MAGI システムとは何でしたっけ?

さて、以下本論(?)。日本人の場合、「メルキオール」の名前は、ある作品のヒットをきっかけに人口に膾炙しました。ある作品とは『新世紀エヴァンゲリオン』のこと。その物語のなかに登場するあるモノが、東方の三賢人になぞらえ、「MAGI(マギ)」の名前を与えられていました。

 

ジオフロントという地下施設に本部を持つネルフは、そこにメインフレームとして「MAGI(マギ)」なるスーパーコンピューターを保有していました。ネルフ職員が、審議事項をこのコンピューターに上程すると、あれこれ計算した末に、可決なり否決なりの決裁をくだしてくれます。

 

ここまでは『宇宙海賊キャプテンハーロック』のトチローや『銀河鉄道999』の銀河鉄道公安局のようによくある設定なのですが、この審議プロセスが秀逸なのは、マギが3つのOS から構成されていること。すなわち、OS のメルキオール・バルタザール・カスパーがそれぞれの立場から問題を検討します。

 

それぞれの立場とは、開発者である赤木ナオコ博士の「科学者・母親・女」という社会的な役割を指します。実は、MAGI には彼女の人格が移植されていてるのでした。彼女の社会的な役割の違いは、判断に微妙な揺らぎを与え、同じ質問に対して必ずしも同じ答えを導き出しません。

 

話が脇道にそれますが、Facebookザッカーバーグというひとが本質的には大して利口ではないなあ、と思ってしまったのは以下の発言。

2種類のアイデンティティーを持つことは、不誠実さの見本だ。

利口ではないというのが不適切なら、このひとはやはりアスペルガーかなんかだと思います。人間の多面性について、まったく理解が及んでいないのでしょう。こういうひとが時代の寵児としてもてはやされることに、ちょっとばかし危険なものを感じます。この話はゲーム『ひぐらしのなく頃に』とつなげて話せるのですが、長くなるので、今日はここまで。

 

さて、機械であるにもかかわらず、人間の人格を移植したMAGI には、きわめて優れた特徴がふたつあります。ひとつは、機械であるがゆえに他者の顔色をうかがいながら、つまり情実を顧慮しながら回答することがない点。あくまでも、自分の信念(機械ですが)のもとに発言します。

 

もうひとつは、審議者が3名であるがゆえに、その結論にバリエーションがある点。3者が3者とも賛成を提示した場合の全面可決やひとりが反対に回った場合の条件付き可決などがあります。あるいは、逆に、ひとりが賛成しても残りのふたりが反対した場合には否決となります。

 

アニメでは、ハッキングを受けたメルキオールがネルフ本部の自爆を提訴したときに、バルタザールとカスパーの両名が否決にまわったことでそれを食い止めていましたね。わたしはこのシーンにクールに判断をくだす機械と熱い血が流れているひとが争っているかのような錯覚を覚えました。

 

異教の知である「MAGI」

「メルキオール・バルタザール・カスパール」を総称する「MAGI」は、ギリシャ語に言葉の由来を持ちます。今世界で一番ホットなあのギリシャです。ギリシャ語で「知識」のことをマグといい、その複数形がマゴイです。つまり、マギを直訳するなら「知識人たち」くらいの意味になるでしょう。

 

そうした「知識人」を示す「MAGI」から「magus(占星術師)」という言葉が生まれました。ただし、これは「東洋の」占星術師を呼ぶときに限ります。西洋の占星術師を意味する際には用いません。つまり、「MAGI」は、西洋人にとってきわめて異教的な知識を持つひとたちを意味しました。

 

「メルキオール・バルタザール・カスパール」の3人にわざわざ「東方の」という形容詞をつけるのは、そのためです。ただの賢人ではなく、異教的世界から訪れた賢人、それが「MAGI」です。ですから、そんな「magus」がもちいた「magic(魔法)」も多分に異教的なニュアンスを持ちます。

 

科学と魔法は仲間

西洋人は、自分たちの「alchemy(錬金術、魔法)」を東洋における「魔法(magic)」と区別しましたが、現代に生きるわたしたちの目から見れば、どっちもどっち、同じものといって差し支えないでしょう。西洋では、そうしたalchemy としての魔法をベースに科学が花開いていきました。

 

科学と魔法(magic)を二項対立する、白と黒のように考える方が多いと思いますが、その理解はやや足りません。西洋も魔法(alchemy)に支配されていました。しかも、そのときは「科学」として通用していました。魔法だと思っていたことに再現性を付与したのが科学、という理解が正しいでしょう。

 

つまり、ぱっと見にはまったく水と油の関係に見える科学と魔法は、実は、「知識(MAGI)」という同じ「親」を持つ「子供」であり、両者は異母兄弟の関係にあるといえます。わたしは読んでませんが『とあるシリーズ』は二項対立、異母兄弟、どちらの見解を支持しているのでしょうか。

 

MAGI が示した民主主義

さて、「MAGI」の話に戻ります。複数のひとが自分の知識・見識に従い、多数決に基づいた判断をくだす。これは、まさに民主主義における意思決定プロセスにほかなりません。それを最小モデルとして見せてくれたのが、『エヴァ』の「MAGIシステム」でした。とても面白い設定だと思います。

 

多数決がちゃんと機能するための最少母集団は「3」です。「3:0」もしくは「2:1」であるならば、そこには過半数の同意があります。最少母集団を「2」とする声も聞こえてきそうですが、その場合、「可決/否決」は基本「2:0」しかあり得ません。これは実質ファシズムです。

 

「東方の三賢人」は、もしかしたら民主主義的寓意をその背景に秘めているから「3人」なのもしれませんね。もしくは民主主義的に判断をくだすことが「賢人」の方法だという隠喩かもしれません。いずれにしても異教のひとびとがキリストの誕生を祝福したことには、何か皮肉なものを感じます。

 

ところで、ここで忘れてはならないことがあります。それは、民主主義的意思決定のプロセスを担保する個々人の合理的な知識・見識やそれらを束ねた集合知なるものが、きれいなかたちでこの世にあらわれたのではないという点です。先にも書きましたが「初めに闇(魔法)があった」のです。

 

もし、リオタールが考えだした「大きな物語」が世界から消失したあと、コジェーヴが分析したようにひとが動物化するならば、世界に光を授けてくれた科学から魔法という闇の世界へひとびとが遁走するようなことが起きるのではないでしょうか。なんたって、科学と魔法は紙一重なのですから。

 

科学史を眺めれば、科学と魔法が地続きの関係にあることは一目瞭然です。ひとが前に進むことをあきらめ振り返ったとき、背後にはいつでも魔法の世界があなたの帰還を待ち受けています。エセ科学を信じるひとたちを笑うひとがいますが、エセ科学がそんなに突飛なものでないことがこれでおわかりでしょう。

 

理性の世界に踏みとどまるには、そのための努力が必要です。ひとが考えることをやめた結果、悲劇が生まれたことを、ハンナ・アーレントはその著書で暴き出しました。現代に生きていれば、ひとが科学的姿勢を身につけ、理性的に振る舞うなんて、それこそとんでもない「魔法」の物語なのです。

 

んー、おかしい、今日は平山夢明さんの『メルキオールの惨劇』を紹介しようと思ったのに (-_-;;;;;)

 

メルキオールの惨劇 (ハルキ・ホラー文庫)

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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