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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【雑 文】※ネタバレあり。 ゴジラの感想だよ、よかったらお目通しください ( ^ω^ )

雑 文

※乱筆乱文、ご容赦を (^o^;)

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物語を推し進めるちからとは、ひとの心のなかに口を開ける虚(ウロ)、すなわち不足である。

ひとは自分に足りないものを追い求め、異郷に旅し、それを獲得し得たことで成長の証をたて、しかるのちもとの故郷へ帰ってくる。これが物語の基本フォーマットである。

ある作品のあとがきで西尾維新は書く。「『たったひとつだけ願いが叶うとしたら?』というのは、誰もが一度は考える問いだとも思いますけれど、結局そういうときに問われているのは、『何を望んでいるか』ではなく、『自分には何が足りないか』なのかもしれません。足りないものを欲することこそ、人の業ですか?」

不足が物語を生みだすための駆動力であると同時に人の業であるのなら、つまるところ、ひとがこの世に生まれてくる意味とは、不足を充足させるための物語をしたためる一点に求められるだろう。ひとの一生とは一連の経過報告書を書きあげることだと言い換えてもよい。

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映画『シン・ゴジラ』には、そのような物語が存在しない。

ゴジラの出現に予断と臆見が飛び交い、政府の首脳陣は揺れる。ミドルを代表する主人公は苛立ち、仲間たちは彼を支える。外国は威圧的に介入を画策し、大衆は逃げ惑う。

作品を鑑賞したひとは気付いただろうか。彼らはだれひとりとして、守るべき妻や子、恋人についての描写をもたない。この作品には、人間ドラマがない。意図的に除外している。

本来、ひとがもっとも切実な不足として抱え込むはずの他者に関する記述がこの作品からはすっぽりと欠落している。なぜかという問いには、次のように答えるしかない。

日本には〈人間〉がいないから。

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その代償として、登場人物たちにはほかのものが与えられる。物語を駆動させるためのトリガーたる不足、それが〈東京〉である。すなわち、中央を意味するものであり、行政と経済の揺るぎなき根幹であり、抽象的、現実的両位相において日本と同義と見なされる東京である。東京が滅ぶとは、すなわち日本が滅ぶことにほかならない。

ひとたび政治的決断を要する問題が出来すると、身近なひとびとへ注ぐまなざしが失われ、無限のイデオロギー論争へと執着する日本人の姿勢。人間の本来的な生活が喪われ、記号の意味に記号の意味を塗り重ね、言葉が信号となって、電線のなかを、電波のうえを飛散していく東京。表徴の帝国。まさにロラン・バルトだ。

戦後七〇年間、現実を遊離した虚構のなかにあくせく生きてきた日本人。そこへゴジラという名の、もうひとつの、しかもより強大な虚構が襲来する。マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるように、この大掛かりな虚構はようやく日本に現実の相貌を引きずり出す。ゴジラの仕掛けとは、日本人の虚構性を剥ぎ取り、東京を満たしていた真空を明らかにすることなのだ。やはりロラン・バルトだ。

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作品のなかを飛び交う難解な行政用語や煩雑な行政手続き。あるいは、官僚たちの日常風景として繰り出される、立て板に水の調子の会話。これらはすべて、ゴジラという虚構を前にして明らかとなった大いなる虚(ウロ)を満たすために注ぎ込まれる呪言なのだ。

平時、東京を埋め尽くす神経症的かつ大量生産された空疎な言葉たちもまた空っぽな東京をそれと知られないためのアリバイにすぎない。

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ひとが抱え込む不足にはいくつか種類がある。

成長を志向する不足もあれば、平穏な日常生活を脅かす、災害のような引き算としての不足もある。これらは取り扱いを間違えなければ、ひとが前へ進むための足がかりとちからを与えてくれるものである。

一方で、虚無としか言いようのない不足がある。自分の生活が何に立脚しているかを忘れ、ただただ虚構に戯れ、抽象論争に明け暮れる日々のことである。ここには生きる意味が毀損されている。

今の日本全体を覆っているのが三番目の不足なのだ。記号に記号を積み重ねることで、何かを作り上げた気になっている。政治家、官僚ばかりがあげつらわれるが、大衆もまた共同正犯を免れない。そこへ災害のメタファーであるゴジラが虚構としての不足を併せ携えてあらわれたことは上に書いた。

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突如として持ちあがった現実にうろたえていた登場人物たち。しかし、途中からそうした現実へ果敢に取り組む者たちがあらわれる。これが軍隊である自衛隊と組織のはぐれものたちを招集した巨大不明生物特設災害対策本部、「巨災対」の面々である。

政治家や官僚も次第に現実への対処方法を覚えていくが、それよりも先行して柔軟に対応していったのが自衛隊と巨災対、世間擦れした言い方をするならオタクの面々なのである。

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前者は常に現実を心掛けた活動をしている。軍隊が理想や掛け声、予断、楽観で動いたときにどういう顛末に陥るか、日本人はとくにそのことを先の戦争から肝に銘じているはずである。

一方、巨災対の一匹狼の面々は、現実への無頓着さが売りなのだ。現実に呑まれることを毛嫌いし、一歩身を引いた位置から静観することをみずからのスタンスにした者たちだ。平時においては、そうした態度が周囲に違和感を抱かせ、浮いてしまう存在。だが、ひとたび有事ともなれば、虚構にすがって暮らしてきた一般大衆よりも現実への適応能力が高い。

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自衛隊と巨災対。一見、両者は水と油のごとく人間の資質において、真逆にあるように見え、その実、現実を見据える冷静な視線においてはまったくの似た者同士なのである。つまり、有事において、活躍するべくして活躍しているということだ。

建前上、軍隊が存在しないとされる日本において、自衛隊は虚構の組織と言えるだろう。

一方で、平時に現実とされるものと折り合おうとしない巨災対の面々もまた一般人からは虚構の世界に生きる遊民と見なされている。

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そうした両者がもっとも現実に対する身の処し方を心得ている。ゴジラという有事が、現実と虚構をひっくり返した事例はここにもあらわれているのである。

ゴジラのキャッチコピーにある「現実対虚構」の意味は、なかなかにどうして奥が深いと言わざるを得ない。庵野監督の現実と虚構をさばいた手際、そしてそれをエンターテイメントに結実させたこれまでの実績。やはり、日本には稀有な才能である。

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シン・ゴジラ音楽集

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