【 本 】エブリバディ・ラブズ・ブックス!-『本は、これから』
最近、Amazonで電子書籍が50%オフの大盤振る舞いでした。
Kindleの市場を広げようと、なかなか大胆なことをやりおります。
わたしの個人的な意見としましては、本来、紙の本と電子書籍は対立するものではありません。
映画を観るときに、大画面好きは劇場に行けばいいし、お手軽派は自宅でオンデマンドで鑑賞すればいい。そのくらいの違いだと思います。
アンチ電子書籍派のひとが何を恐れているかといえば、電子書籍そのものよりも、その普及と引き換えに紙の本がなくなること。
電子書籍はピンポイントの情報検索には強いので、忙しい現代人には確かにふさわしい。でも、前から後ろからざっと目を通したいときに、これほど不便なものもありません。ひとはいつもいつも調べたいことがピンポイントでわかっているわけではないですからね。
ですので、電子書籍ばかりになると、本の読み方が、いわゆる、木を見て森を見ず的になるんじゃないのかな。そこから思考にそういう癖がつくんじゃないのかな、とわたしなどはその点が怖いです。
ですから、是非とも、紙の本と電子書籍の共存共栄を目指していただけるよう、出版社にはお願いしたいと思います!
以上、わたしの『本は、これから』論。
本書『本は、これから』では、
池上彰さん、今福龍太さん、菊地成孔さん、紀田順一郎さん、鈴木敏夫さん、南陀楼綾繁さん、西垣通さん、原研哉さん、松岡正剛さん……
といった実に多彩で、豪華な執筆陣が、これからの書籍展望、読書展望について語ります。
今日は、寄稿された方々のお名前とワンポイントリマークを以下に一挙掲載。
「紙の本 vs 電子書籍」、あなたはどっち?
あの人 もはや 電子書籍しか読まないから
あれはほんじゃないよね
データだよね
あー本っていいなあ
少々皮肉っぽくなったが、新書戦争とやらで、どんな本が出ているかさえわからなくなったご時世となって、本の選別が不可能になりつつあるのは事実である「悪貨は良貨を駆逐する」のと同じ現象が生じ、むしろ出版会が自分の足を引っ張り合って共倒れの運命を歩んでいる気がする。
若い人たちに、「明日、世界が終わることになったら、池上さんは、何をしたいですか。色紙に書いてもらえませんか?」と頼まれました。私が「万巻の書を読みたい」と書くと、若い人たちが怪訝そうな顔をして、「あのー、万巻って、どう読むんですか? どういう意味ですか?」と聞くではありませんか。ありゃ、りゃ。わたしも古老の仲間入りかい。
壁画に取って代わった活字は、同じように世界が終わるまで、存在し続けることができるだろうか。少なくとも人がいなくなった無人の荒野で、人類の歴史を語るのは電子書籍ではなく、物質に刻まれた遺跡としての活字であるとぼくは思う。
今福龍太
役にたつ、便利だ、有用だ、経済的だ……。そんな安っぽく扇動的な言葉を、本の世界から放擲すること。それらすべての形容をまとって、今年あたりから巷に登場しそうな電子ペーパー画面が付いた掌に乗るタブレットなども、本ではない、と見破ること。
岩楯幸雄
黙っていて売れる本、売りたい本が必要な数だけ小さな本屋にも配本される事はもちろんありません。毎日仕入れに行き現物を見て「この本はあの人に」「あの本はあの人に」と、お客様の顔を思い浮かべながら仕入れて来るのです。お客様のイメージが浮かばない本は仕入れないのです。
デジタル・アーカイブの最大の問題は、何年かおきに媒体の移転を継続しつづけなければならないコストがあまりに膨大なことである。そうなれば、紙の上に墨をこすりつける、という究極のローテク・アナログ情報のほうが、長期間の延命に耐えることが証明されている。木簡や竹簡に墨で書かれた文字は、千年経っても読むことができる。
電子書籍の第一の難点は「どこを読んでいるかわからない」ことである。
たしかに頁をめくると「ぱらり」と音がしたり、ページがたわんだり、反対側の活字が透けて見えたりと、紙の本を読んでいる状態を擬似的には経験できる。だが、残り何頁であるかがわからない。いったい自分が物語の中のどの部分を、どの方角に向かって読み進んでいるのかがわからない。
マラルメではないですが、作品とか書物とかいわれるものは、さらに究極の一つを求めて組織される。そうでないと作品にならないし探求が成り立たない。本はこれ以上欠けることも足すこともできない完結した体系です
本という文化、読書という文化の特性は、ゆっくり、ということです。
桂川潤
装丁という仕事は、要はテクストに「身体性(物質性)」というコンテクストを与える仕事と言っていい。装丁のみならず、編集や書籍販売といった本に関わる仕事も、突き詰めれば、テクストにコンテクストを付与する作業と言えるのではなかろうか。
大雑把に言ってワタシは、二一世紀というのは、「何を読み、聴き、喰い、経験したか」という、加算的/攻撃的なプロフィールの時代が終わり、「何を読んでなく、聴いてなく、喰ってなく、経験してないか?」という、原産的プロフィールの時代だと思っています。
いま電子書籍の時代を迎え、出版業界は一様に不安をかかえている。著作権も明確な結論を出せる段階にないといえるが、一つ確実なことは、現在の紙の本の水準をそのまま電子書籍に移行しただけでは単なる電子的複製というにとどまり、一見多様に見える論議も内向きの権益保護のためでしかなく、新しい書物文化創造にはつながるまいということだ。
実に下らない言い方ですが、書籍は技術を売り物にする商品ではありませんよね。あえて技術という言葉を使うならば、それこそもっともっと原始的な表現技術なんてものを売り物にしているわけで、それこそ最先端技術云々の話ではありますまい。それほど離れた位置にあったはずの書籍に先端技術がなんとか絡もうとしているのは、その先端技術とやらがすでに終盤に来ているという証です。もっと他の所で遊んでいればよかったものを、もう他は頭打ちなのね。どうやら。
本屋さんに行った帰り道、町の景色がいつもと違って見えた日が幾度あったろう。思いがけない収穫があったときは、私の内部で混沌としていた点と点がいくつもの線でつながるようで、心地よい。いきなりタイムマシンに乗せられて、歴史の渦に吸い込まれていくようなスリルも味わえる。旅先で必ず書店に入るのも、そんな出会いを期待するためだ。
ドキュメントスキャナーにかけるためにページをばらばらにする段になって、電子化したあとは抜け殻をごみとして出すか、電子化したあとにまで手元に置く必要はないから古書店に出すか、やっぱりばらばらにするのは惜しいので棚に戻そうかと、改めて悩むと聞いた。三者択一かと思いきやそうでもなくて、いったん断裁したものを捨てられずに改めて自分で製本する人もいる。
人はさまざまなことをきっかけに、一冊の本を手に入れる。あたりを見渡せば、あらゆるところに本はある。その中で、納得できる何冊かの本とほどほどに出会える才能がありさえすれば、たとえ「すべての本」に行きつかなくても人は幸福に生きていくことができると思うのだ。
気に入った本は何度も読み返す。そうやって体の一部としたうえで、持ち歩く。ネットは脳や記憶の外部装置だというが、僕にはよく分からない。その外部装置は、果たして生きる力になるのだろうか。
もちろん、出版社が担ってきた書き手の発掘と育成、編集、校閲といった社会的な機能は、プロダクションのような形で電子書籍でも実現できる。しかし、編集や校閲もなされない個人の電子出版が大量に出回れば、高質の出版が、「デジタルの海」に沈むことも、たやすく想像できる。
田口久美子
いわゆる良書でもテキトーに作られたお手軽本でも、棚に並べて見渡せば、そこには日本の歴史を背負い、世界からの風を翻訳という形で表し、現在の社会を反映した書棚になって読者の前に現れる。
土屋俊
しばらくたつと、われわれが知っているような本はもう日本からなくなってしまうだろう。これは現在の情報伝達の趨勢からみてほぼ必然的なことだと思われる。
電子書籍は置き場所に悩まされない。何千冊でも保管できる、と謳っている。あなたは本の山から解放される、部屋がスッキリしますよ。これが最大の利点というが、本の山をうっとうしく思う人は、もともと本が好きでないご仁だろう。愛書家は本の山だから嬉しいのである。電子書籍を発明した者は、本が好きでない者であって、そういう人が喧伝する物が本好きに歓迎されるわけがない。
常世田良
たとえばインターネットの普及は、「調べる」文化を日本へ持ち込んだことはたしかであるが、学生のレポートならいざしらず、プロレベルの情報を得ようとした場合、Wikipediaレベルの情報では全く役には立たない。
地域の街の書店は激減し、ナショナルチェーン店ばかりが増え、老舗書店は「絶滅危惧種」などといわれています。こうした厳しい状況の中でも、私たち今井書店グループはあくまでも「地域」にこだわって、ドンキホーテが風車に立ち向かうように、いろいろな挑戦をつづけています。
長尾真
これからの著作者はそれに応じてマルチメディアを十分に駆使し、読者とやりとりできる機能をもった作品を作る能力が要求されることになる。多くの場合、一人の人ではこの広い領域の技術をうまく使いこなすことが出来ないため、著者(もはやこの言葉は適切でなく、創作者とでも称したほうがよいだろう)は映像や音、あるいはソフトウェアの技術を専門とする人達との共同作業が必要となる時代が来る。すでにまんが、アニメ、あるいはカラフルな雑誌などではこのような共同作業の著作が行われている。
日本の知識人で古典は必要ないと言いきれる人はおそらくあるまい。そして、そうした人達はおそらく、必要な古典はほとんど活字化されているにちがいないと思いこんでいるのではないか。しかしそれ以外の活字化されないものは読めないとなれば、実際の所、日本の知識人の大半は、先人の知的遺産のわずか一%しか利用していないことになる。これほどもったいないことがほかにあろうか。
ひとから「読書家だそうですね」と聞かれると、「いいえ、生半可な買書家です」と答えることにしている。本に関しては、主に新刊を買い集め、書棚に収めることを第一に趣味としているからだ。キティちゃんグッズや、鉄道切符の収集家と似てなくもない。
私は、自分の本棚と同じぐらい、祖母や父の本棚を眺めるのが好きだった。ふだんの生活で接しているだけでは判らない、彼らの心の中がすこしだけ見えるような気がしたからだ。
友人の部屋に行くとまず本棚を眺めてしまったり、自分の本棚を他人に見られるのを嫌がったりするのも、本棚がその人の心の中を自然に映しだすものだからだろう。
書店を訪れてみれば、わが物顔に平積みされ、書棚を専有しているのは、『年収を◯倍にする秘訣』だの、『◯週間で絶対ものになる英会話』だのの類ばかりである。それらはいかに内容が空っぽでも、ベストセラーとして出版社や書店を喜ばせる。お雇い評論家は妙なリクツをこねてヨイショと持ちあげる。売れれば官軍なのだ。他方、巨大な想像力を感じさせる小説だの、精密な論理を積み重ねた思想書だのは、商品価値がないものとして紙くずのように返品され、裁断されていく。
萩野正昭
ものをみる自分はどの位置に立っているのか。おそらく表現のもっとも大切な基本はここにある。視点は一つではない、どの視点に立ってメディアを考えていくのか? このことはデジタル時代の出版を形づくるすべての者にとって大きな課題だ。
長谷川一
そのとき鍵を握るのは、物質性を措いてほかにはないだろう。物質性を、読みやすさだとか質感だとか一覧性といった機能的な水準でとらえると、システムへ回収されてしまいかねない。そうではなく、物質性そのものの内側から探っていくべきだ。
紙での読書は目と脳みそ以外にも、無意識のうちに様々な五感を総動員して読んでいます。だから指先の皮膚感覚と記憶の交差から、探していた過去の箇所へとページを捲り戻ることも自然にできます。確かに電子リーダーでも何ページあるうちの何ページ目という表示は出ますが、それはあくまで数量のみの問題です。体の感覚としては残っていません。
都市もこれからますます「読み物」になっていくだろう。目指した映画館やショップにたどり着くだけではなく、都市という未知なる出来事の塊の中から自分にとって好ましい情報をタイムリーに読み出してアクセスできるなら、都市はその深奥まで利用可能になる。
母の読んでくれた本はいろいろあっただろうが、今でもはっきりと憶えているのはフレーベル館の『キンダーブック』だ。
もともと読書の歴史には、パピルス、羊皮紙、巻子本、冊子本のころから、何かがくっついてきた。たとえば声である。人類は洋の東西を問わず、長らく声とともに本を読んできた。それが経典の時代になっても、哲学や物語や博物学の時代になっても、続いた。黙読なんてできなかったのだ。源氏物語絵巻には、公達たちが寝転んで絵巻を読んでいるところを、女房が几帳の蔭で盗み聞きをしている場面がある。二人の「声」を聞いているのである。
スローな読書には、やはりしなやかな紙の本こそがふさわしい。それも文庫本のように、手にすっぽり入るような版型が望ましい。もちろん「ワイド版」の文庫ならば、大歓迎だ。弱った目にこれほど優しいものはないのだから。