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Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】メディアを行き来する作品たちの変容-『まんがはいかにして映画になろうとしたか』

 本 

まんがはいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究

 

表紙を見るとチャラい感じを受けますが、一応、大学の論文集。
大塚英志さんの『まんがはいかにして映画になろうとしたか』。
たまにこういうお堅いものも読みたくなる。

 

映画表現をマンガへと翻訳し続けた手塚治虫さん、石ノ森章太郎さん。
その後、大勢の作家さんの手を経て洗練されたマンガ表現が、逆にアニメにも活かさるようになります。

たとえば、「集中線」や強い衝突をあらわす形喩「光芒」といった記号的手法は、金なし時間なしという現場の事情やマンガとの親和性の高さからでしょうか、ずいぶんと早い段階から使われてきました。

アニメ『ジョジョの奇妙な冒険』では、原作の効果音をまんま文字で表現してましたね。有名な、カエルが潰れる「メメタァ」。あの文字をアニメにそのまま取り込んでいるのを観たとき、荒木先生の場合、効果音が実は映像であることを再認識した次第。

これはちょっと古いですが、映画『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙編』。
アムロ、セイラ、シャア、ララァの四者が宇宙で交錯したとき、それぞれの顔が画面を分割したコマのなかに描かれました。まさにマンガの発想です。

 

小説が映画になり、やがてコミカライズされる。逆に、映像作品がノベライズされたり、やっぱりコミカライズされる。

こうしたひとつの作品が多岐にわたるメディアで表現される現状をメディアミックスといいます。しかし、複数のメディアを渡り歩くなかで、キャラクターなり物語の世界観なりは確実に変化することでしょう。

たとえば、すべてを盛り込めない原作小説のエピソードをアニメでバッサリ端折るのであれば、キャラクターの人物造形が変化をこうむることは免れません。また、音のない小説に声優さんが声をあてることで、大いに作品の価値が上がったり、逆に目も当てられないくらい悲惨なことになることもあります。

こういうメディア特性やメディア自体に内在する表現の限界が、作品にどのような影響を及ぼすのかをきちんと分析してみると面白いでしょうね。それは表現の拡大である場合もありますし、表現の縮減である場合もあります。
メディアミックスにおける、そうした表現の揺れをあえて楽しむみたいな高度な楽しみ方をしているひともいることでしょう。

個々のメディアを研究し尽くしたものはありますが、作品がメディア間を移動する際にどのような「編集」が行われているのかについて言及したものは、あまり目にしたことがないように思います(不勉強だけかもしれませんが)。

 

映像はぼやっと見ていようが集中して見ていようが一分は一分。すべてのひとに斉しく時間は流れます。もちろん、楽しんでいる場合や退屈な場合の、主観的な時間の伸び縮みはありますよ。しかし、本の場合、同じ一ページを一〇秒で読み飛ばすひともいれば、同じところに三分かけるひともいます。

こうした受け手の態度の違いを念頭に置いた表現の出し方というのもあるでしょう。

 

メディアを越境するときの作品表現は、プロであれば確信的に、素人でもぼんやりと小器用に処理してしまいます。

多分に実践的、秘伝的、口伝的、感覚的なところがあって、あまりきちんとまとめられてきていないように思います。かつては、「元祖おたく」のひとびとがこうした部分を背負っていらっしゃったように思うのですが、近年はおたく界も伝承者不足に喘いでいるところ。

日本のアニメとマンガは世界に誇れる表現です。
今後、こうした切り口の研究が進むといいなあ、と個人的に期待しております。

 

まんがはいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究

まんがはいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究