【マンガ】将也と硝子、ふたりの声なき者-『聲の形』
ある本に、今の若者の社会が、もっと言えば社会全体が「コミュニケーション偏重主義」に支配されているから生きにくくなっているということが書いてありました。
要するに、コミュニケーション能力という物差しだけでひとの価値が決められてしまっている。
勉強ができるとか走るのが速いとか、あるいは野球選手の名前と特徴を何百人も暗記しているといったようなさまざまな長所の尺度がなくなり、コミュニケーションだけが至上の価値を持っているということです。
さかさにすれば、コミュニケーションが上手にできないひとには、社会に居場所がないということでもあります。
自分の周囲やネットの例えば就活のニュースを見ていても、これは充分に頷けるところがあります。
わたしたちがコミュニケーションと聞いて、ぱっと頭に思い浮かべるのは、やはりひとの話を聞き、そして、それに適切な応答を返すことでしょう。
そうであれば、もしその聞くための耳を生まれつき持っていなかったら、わたしたちのコミュニケーションはどのように変質し、周囲にどのような影響を与えるでしょう。
『聲の形』
作品が発表されて以来ずっと反響を呼んでいるようですが、作品を一読すれば、作品のもたらすメッセージの大きさが感じられるはず。
石田将也という主人公の在籍する小学校のクラスに、あるとき聴覚障害者の西宮硝子という女の子が転校してきます。
彼女は、健常なひとからすれば完全にイレギュラーな存在。
当初、遠巻きに接していた将也は、彼女がどんなイタズラや嫌がらせにも自分を抑える姿を見て、どこまで耐えられるものかと行為をエスカレーションさせていきます。
手応えのない、柳に風状態の硝子の態度に将也は次第にフラストレーションを募らせ、ついには彼女と取っ組み合いの喧嘩をしてしまう。
直後、硝子は他の学校へと転校してゆきます。
どうでしょう?
普通のひとが誰でも彼でも将也のようになるとは考えにくいかも知れません。
しかし、彼の硝子に対する行為を興味深げに見守っていた友人たちも本作には大勢登場しますが、そのなかのひとりになり得ることは充分に考えられることです。
障害者と位置づけられるひとたちの社会参加が積極的にうながされる今の世の中。
でも、ある日、そういうひとたちと自分のテリトリーだと思っていた場所で本当に直面してしまったら、わたしたちは頭で思い描くような理想的かつ理性的な行動を取ることができるでしょうか。
しかし、この作品はそうした障害者に対する理解やモラルある振る舞いといった、ある意味表層的なことだけを取り上げた作品ではありません。
そのキーワードが冒頭に書いた「コミュニケーション偏重主義」。
いまの若者が取り憑かれ、振り回されている、空気のように目に見えないそれを描いたところにこの作品の現代性があります。
一巻の前半、将也はことあるごとに「退屈に勝つ」「退屈に負ける」という言葉を口にします。
いかに退屈を自分の支配下におさめ、消化するか。
そのために、彼は「度胸試し」と称して、川に飛び込んだり、靴を盗った男の子(これは相手が悪いのですが)にタイマンで喧嘩を挑んだりします。
中身はともかく、自分の人生に対して非常に積極的なひとつの少年像が描かれています。
しかし、ここで大事なのは、彼が友達、もう少し難しい言い方をするなら「第三者の目」を必要としている点です。
彼は自分の退屈を自分ひとりでは決して片付けられない。
「退屈に勝つ」ためには、常にギャラリーの視線が必要なのです。
何のためにか。
おまえは面白いやつだ、と観客に認めてもらうためにです。
だから、彼は常に友だちとつるみたがります。
つまり、将也は他人の眼を通した「承認」を得ることでしか、自分の心のなかの退屈という名の隙間を埋め、自分の存在を実感できないのです。
将也自身は、あくまでも自分が能動的・主体的に「退屈に勝」ち、クラスの中で存在感を示しているつもりです。
しかし、実際には、彼は自分の核となるものを持たず、友だちの「承認」にだけ依存した、とても不安定なバランスのうえに生きていました。
たとえて言うなら、テレビの俳優や芸人が人気という非常に不確かなものによって生かされているような感じです。
突飛な行動を取り、友だちをいじり、面白おかしいやつだとみなから「思ってもらえる」。
決して、自分で自分を面白いやつだと「思っている」のではありません。
そうした括弧付きコミュニケーションを取ることでしか自分の居場所がないことを彼は本能的に気付いているのです。
この「括弧付き」のコミュニケーションこそが「コミュニケーション偏重主義」の正体です。
自発的な意志のもとに言葉を発し、行動を起こすのではありません。
あくまでも、相手が「承認」してくれそうな言葉や行動を選んで、コミュニケーションを行う。
将也でいうなら、硝子をいじることで友だちが彼を「承認」してくれるから、そして、その「承認」によって彼自身自分の存在を確認できる(これが、退屈に勝つ、という意味)から、硝子をいじめる。
ちなみに、今の若い子たちにコミュニケーションの肝だと思われていることのほとんどはお笑い芸人・お笑いタレントにあると思っていいでしょう。
ただ、この話も論じると長くなるので、今日はちょっと端折ります。
彼の存在感を確かにしているものは、自分自身の信念や能力などではなく、他人が自分を測るその定規という、不確実で、脆弱なものでした。
そのことに初めて将也自身が気付くのは、いじめた硝子が転校してからです。
自分の机に書き殴られた「死ね」の大文字。
将也は自分の置かれていた立場を読み取り切れず、自分より本当の意味でのコミュニケーション・ハンデを抱えた人間の頭を押さえつけることで辛うじて自分の立場を維持していたのです。
つまり。
周囲のひとの声が聞こえていなかったのは将也。
コミュニケーションから取り残されていたのは将也。
そういうことなんです。
『聲の形』というタイトルの「声」の字はあえて旧字になっており、文字のなかに「耳」が入っています。
ひととの円滑なコミュニケーションをするうえで、耳の果たす役割はとても大きい。
しかし、耳の聞こえている健常者が本当にコミュニケーションできているかというと、決してそんなことはありません。
もしかすると「コミュニケーション偏重主義」という面白おかしく自分を演じることとそのフィードバックとしての評価で、みんなとコミュニケーションが取れている気がしているだけかもしれないのです。
一巻以降は、高校生になった将也と硝子が再開し、ひととのつながりを再生していく話が描かれます。
耳の聞こえない聴覚障害者である硝子が将也の耳となって、今まで聞こえていなかった「聲」を彼に聞かせるわけです。
うーん、ものすごくアイロニカルな展開。
最新刊は四巻まで出ました。
本当に耳の聞こえない硝子は、将也という耳を通じて、どんな「聲」を聞くのでしょう。
健常者で耳が聞こえる気でいた将也は、硝子という耳を通じて、どんな「聲」を聞くのでしょう。
今のティーン(場合によってはオトナ)が取り憑かれている「コミュニケーション偏重」の桎梏をふたりの若い感性はどのように克服していくのでしょうか。
いよいよ目が離せません。
オススメです♪
中途半端な映画・ドラマにはしてほしくないなあ。
ジャニーズとAKBでは卒倒しちゃうよ。