【雑 文】いろんな新参「文化」があるけれど、そのほとんどが文化になりえない理由
京都の祭りと京料理
週末、京都の伏見稲荷大社では、宵宮祭・本宮祭が行われました。真っ赤な鳥居の迷宮と神域を華やかに彩るこちらも真っ赤な提灯のようすは、写真で見ていても眩暈がしそうなほど素晴らしい。赤という色は、なぜこうもひとの気持ちを妖しく掻き立てるのでしょう。
京都市中心部の四条では、月末まで祇園祭がまだまだ続行中。来月8月ともなればいよいよ五山の送り火。それも終わり、涼しくなった頃には、重陽の節句、中秋の名月など秋のお祭りが目白押し。紅葉が京都を燃えあがらせたあと、その埋み火を懐へ抱いたまま町は師走へと。
祭り好きからすると羨ましい限りの環境ですが、主催者のご苦労、並大抵ではないと察せられます。しかし、結果として、観光客が押し寄せ、下世話な話、彼らがお金を落とす。そのお金が町を潤すので、町のひとびとはそうした観光資源を大事に未来へ残そうとする。まさに正のスパイラル。
ところで、最近、『京料理 KYORYORI』という本を読みました。四季の素材を活かした京料理とその簡単なレシピを紹介した本。無闇に手間がかかるものはなく、野菜を煮たり、漬けたりしただけのごくシンプルなものが多い。いわゆる、家庭で日常的に口にするお惣菜の数々。
京都といえば、万願寺唐辛子や加茂茄子、聖護院かぶら、鹿ヶ谷かぼちゃなどに代表される京野菜が有名です。こうした古くからの地名を冠した食材の数々は、流通が発達していなかった時代から、京都が自給自足や地産地消を実践していたあかしとも言えるものです。
「文化」とは「生活」の別名なのだ
さて、外国人はもとより、他県から京都へ訪れるひとびとは、こうしたお祭りや料理を京都の「文化」だと信奉します。しかし、当の京都人からしてみれば、これらはあくまでも「生活」の延長、もしくは「生活」そのものであるにすぎません。ハレとケの違いはありますが。
ただ、物珍しがるひとが大勢押し寄せるものだから、それじゃあ、ちょいともてなしますか、というのが現代における観光の姿です。それは京都に限らず、欧州の宗教的な諸都市でもアジアの猥雑なダウンタウンでも同じ。観光客の「文化」はその土地のひとの「生活」なのです。
「文化」という言葉を用いると、途端にアカデミズムな匂いがして、抽象的なものに変質します。でも、その内実は、朝起きて、食事をし、働きに行き、ときにご先祖さまのお墓参りをし、お花見をして、寝る前には歯を磨き、お休みなさい。これが外来者にとっての「文化」です。
フランス文化やイスラム文化、あるいは安土桃山文化や元禄文化、はたまた、企業文化、スポーツ文化、児童文化、食文化。どの「文化」も因数分解してゆくと、最後にはひとびとの暮らしとその工夫、意匠といった、すなわち「生活」に行き着きます。「生活」こそが「文化」の実体なのです。
「文化」が生成するプロセス
「生活」が繰り返されると、集団のなかで「型」として認知されます。それがある時期からルールとなって逆に「生活」に縛りをかける。土地の素材を使っていただけなのに、ある時期からその素材を使わなければ京料理と呼べなくなる。そういうものに「文化」の名前が与えられます。
「縛り」という言葉を見ると反発を感じるひともいるでしょう。しかし、京都市の真ん中にスカイツリーが建ったらどうでしょう。ヴェネツィアでワ◯ミの料理が出たきたら。ルーブル美術館に隣接して斎場ができ、ガンガン火葬をしていたら。アマゾンの密林にAmazonの倉庫が‥‥‥。
わたしたちは、観光に出かけ、その土地の「文化」に触れ、感銘を受けます。しかし、そうした「文化」はそこに暮らすひとびとが「生活」を変えないからこそ存在します。縛りによって食事の仕方や家の建て方が保護されているから、異邦人は「文化」に舌鼓を打ち、写真を撮ります。
世界遺産における旧跡・名所のたぐいは、文化遺産といいます。これもまたかつてあった「生活」の名残です。ここでもやはり「文化」は「生活」なのです。「オレっちは過去を振り返らねえ」ということになりますと、どこぞのテロ組織のように遺跡を爆弾で吹っ飛ばすということになります。
文化を育み、伝えていくには
その土地のひとが死に絶えるまで生活はなくなりません。しかし、それが集団としての認知を得なくなったとき、文化のほうが先に死滅します。いや、厳密に言うならば、ひとの生活が文化である以上、たったひとりでも生活をするひとがいれば、そこには文化は残るでしょう。
ただ、だれも顧みないものが文化に値するか。ひとが振り返りたくなるもの、それは集団生活における「型」です。世界から「型」が喪失し、あまりにてんでバラバラにひとが生きるとき、それがいつか文化という名称を得るようになるのか、今のわたしにはすぐに判断がくだせません。
しかし、 今わたしたちが「文化」と呼び楽しんでいるものが、現代人のとかく嫌う「型」に嵌められた、「縛り」をかけられたものであることを忘れてはいけません。新たな文化を立ちあげるときも、いかに洗練した「型」を作り出し、維持していくか。そこが要諦になります。
アキハバラに代表されるオタ文化。あれもまたオタさんたちのライフスタイル、すなわち「型」が現実を侵食し、世界から注目を浴びたもの。とかく文化が消えていく一方のこの時代に、奇胎とはいえ、しっかり文化として根付きました。周囲からどう思われようが、彼らがライフスタイルを崩すことはありません。あの頑なさこそが、文化を立ちあげる際のキモになります。
最後はちょっと余談でした。オリンピックスタジアムだけ作ってみても、そこから「文化」が生まれることはありません。まずは生活の「型」ありきなのですね♡

京料理 KYORYORI ジャパノロジー・コレクション (角川ソフィア文庫)
- 作者: 千澄子,後藤加寿子
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