Just Melancholy

140字の小説をほそぼそと流します。本(ナンデモ)を読むことと旅(京都と外国)に出ることと文章を綴ることが大好きです。

【 本 】あなたを苦しめる「目標」という名の呪縛???-『「待つ」ということ』

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最近、ものすごく疑問に思っていることがあるのですよ。

それは、目標を立てることの是非。

現代人は生まれてからずっと、目標を立て、それをクリアーするための努力する生き方をあたりまえだと思っています。

あたりまえというか、むしろ「善」とすら?

次回のテストでは百点を取ろうとか、今年中に簿記の資格を取ろうとか、来年の夏までにはこれだけ貯金して、海外旅行をしようとか。

会社に入れば「目標管理制度」という名の化け物に追い立てられまくり、四半期ごと、半期ごと、年度ごとの目標とその進捗管理に誰もが苦しめられます。

書いてて、胃が痛くなってきた。

 

そもそも目標を立てるとは?

目標を過去に立てるひとはいません。

何時間後であろうと、何年後であろうと、ひとはそれを必ず「未来」という時間軸のなかに設定します。

「未来」とは、読んで字のごとく「いまだ来ていないもの」、つまり、まだ自分がしっかりと掴まえていない、不確かなものを意味します。

そのように不確かな未来に、具体的なかたちを与え、確実に入手する蓋然性を少しでも高めようとすること。
それがすなわち、目標を立てることの意味です。

理屈のうえでは、目標を立てれば、ひとは目標に向け、まっしぐらに努力をします。

しかし、これは逆を返せば、目標に関する以外の選択肢をすべて捨てることでもあります。

あり得たかもしれないほかの可能性に目を閉ざし、結果、自分の生き方を狭める。

また、常に目標を立て努力をすることが習慣化してしまうと、現在の行動は、未来の目標からさかのぼってしか意味付けされなくなります。

分かりやすく言うと、未来に目標を持っていないひとの現在の行動はすべて無意味だと見なされてしまうということです。

 

相手の出方を待つ

しかし、例えば、一日三食子供の食事を用意するお母さんの行動は、将来に何か目標があって、そのことから意味を与えられて行われていることでしょうか。

子供に必ずノーベル賞を取らせるためとか、必ずハリウッドの俳優にするためとか、必ず総理大臣にするためとか。

そんなお母さんはいませんね(とも、最近は言い切れないのですが)。

子供が毎日を健康に過ごせるために、あるいは、美味しいと喜ぶ顔が見たいがためにお母さんは食事を作り続けるのではないでしょうか。

そして、すくすくと育ってくれさえすれば、あとは学者になろうがサッカー選手になろうが、それは本人次第‥‥‥このような心の持ちよう。

「健康に育てるため」や「笑顔を見るため」だって、目標じゃん、と思うひとはいるでしょう。

しかし、このようなお母さんたちの日々の営みは、わたしたちが資格を取るような、まして会社で追い立てられて作らされる目標管理表のような「絶対、未来を我が手中に収めてやる」といったガツガツしたものとは根本的に異なっていると思いませんか。

どちらかと言えば、相手の反応を待つ姿勢です。

 

天命・果報

わたしたちは雑誌や自己啓発書などで、「目標管理」することが人生であり、それができないと罪悪感すら感じるように、強迫的に信じ込まされています。

その罪悪感から「わたしは目標に向かって、充実した毎日を生きている」と思いたいためだけに目標設定をしているとしたら、それはトンデモナイ逆転現象です。

ただ、ここ数年来の手帳ブームには、こうしたことがすでにわたしたちの生活を侵食している感じを受けます。

女の子に多いのですが、手帳のカレンダーにびっしりとスケジュールが書き込まれています。
未来を「目標」とそこへ向かうためのプロセスで埋め尽くし、それを塗りつぶしていく感触でしか、自分の人生に手応えを感じない。

今の自分と目標とを最短距離でつなぎ、それ以外の偶然の介入を一切排する。
未来を不確かなものから確実なものへ変えようという、ある意味、時間の不可知性に対する戦い。

そんな視野狭窄を起こしたような生き方をしていると、そのひとを待ち受けている本当に重大な転機を見逃すこともあるのではないでしょうか。

先に上げたお母さんの例だと、子供を学者にすると決めたばかりにたまたま発揮されたサッカーの才能を見逃す、最悪、見ないようにするみたいなことです。

外国の事情はよく知りませんが、今の日本に関していえば、この「目標を立てる」ことが、ひとの生き方の選択肢を狭め、生きにくくしているようにすら思えます。

古来、ひとは今できることを一生懸命やり、未来に対しては期待を持たず待つことが当然とされてきました。
未来を自分から掴み取りにいくのではなく、来たものをここ一番というときに取りこぼさない生き方。

「人事を尽くして天命を待つ」「果報は寝て待て」ということわざがそれをあらわしています。
それを「天命を取りに行け」「果報を刈りに行け」ばかりでは、早晩ひとのほうが疲れてしまいます。

わたしたちが今の時代当然のように考えている「目標を立てること」、本当にそれって、ひとの生き方の本然に添っているでしょうか。

実は、このテーマ、一回こっきりで語り切れる内容ではありません。

ご興味がある向きには、以下の本をオススメします。

語り口はとっつきやすいのですが、考え出すと、さすが哲学書、それなりに難解ではあります。

 

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)